浄土真宗について

教えについて

浄土真宗の教え

親鸞聖人は、その生涯において、真実とは何かを求め続けられました。その結果、人間の真実の姿とは、煩 悩に振り回されている愚かなありさまでしかないと気づかれたのです。仏の真実に向かい合った私自身のありさまは、自己中心のあり方から離れられず、まさに 「愚悪」としかいいようのない姿であったのです。  しかしながら、その愚かな私たちを救うために、建てられた願いが阿弥陀仏の本願(第十八願)です。それは、阿弥陀仏が「われを信じ、わが名をとなえるも のを必ず仏にするぞ」と誓われた願いであります。

この「わが名」というのが「南無阿弥陀仏」です。阿弥陀仏は、そのすべての徳や願いを「南無阿弥陀仏」として成就される仏さまですから、「南無阿弥陀仏」は単なる仏のよび名ではなく、その功徳全体を私たちに与えたいと願われる阿弥陀仏の慈悲の心の表現であり、必ず私たちを救うという阿弥陀仏のよび声なのです。

こ の南無阿弥陀仏のはたらきが、愚かな私をめあてとしていたことであったと受けとめて、生死の問題についてあれこれ思いはからう心がなくなり、必ず救うとい う仏の仰せにまかせきったことを信心といいます。それは私が信じようと力んで信じた信心ではなく、「われを信じよ」という仏のはたらきによって恵まれた 「他力回向の信心」といわれます。浄土真宗の信心とは、仏の救いを仰ぎ、仏の仰せを信ずるばかりということになります。仏の真実心が私に恵まれたことに よって浄土に往生して仏になることが決定するのです。  ですから、「わが名をとなえるものを必ず仏にするぞ」といわれていても、私たちが「南無阿弥陀仏」と 称える行為に価値があって浄土に往生することが決定する訳ではありません。南無阿弥陀仏にこめられている本願力が往生させてくださるのです。その本願のは たらきを聞き、仏の仰せにまかせきったその時にすでに往生は決定するのですから、称名は仏の恩徳を有り難く思って称えるばかりとなります。

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浄土に往生することが決定したといっても、清らかな仏になった訳ではありません。したがって、浄土真宗の信心の人は、仏の広大なご恩をよろこぶと共に、自らの煩悩のありさまを深く慚愧〈ざんぎ〉する人であります。また、そんな罪深い私が仏のめあてであったと仏のお慈悲をよろこぶ人であります。そして、どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、ただちに浄土に往生させていただく人です。 浄土とは、美しく楽しい世界として表現されていますが、だからといって決して人間の欲望を助長するような世界ではなく、それは清らかな仏のさとりの世界、人間の思議を超えた絶対的な世界なのです。

浄土とは清浄な世界という意味ですから、欲望にまみれた自己中心的な人間の心を清らかにする世界です。ですから、浄土に生れたものは、自己中心の思いを離 れ、他のものの救済のために活動するというはたらきを阿弥陀仏から恵まれるのです。このように浄土は阿弥陀仏が迷いの人々を救おうとして建立された世界で あり、常にこの世にはたらきかける阿弥陀仏の救済の根源となる世界なのです。
浄土真宗の教えは、愚かな人間が阿弥陀仏のはたらき(南無阿弥陀仏)を信じお念仏をして浄土に往生し仏となることを明らかにしているのです。

 

この文章は、 浄土真宗本願寺派本願寺教学伝道研究センターウェブサイトより転載しています。

 

親鸞聖人について

親鸞聖人の生涯

親鸞聖人は承安3年(1173)に京都の南、日野の里で誕生されました。父は日野有範〈ひのありのり〉、母は詳しくは分かっていませんが吉光女〈きっこうにょ〉と伝えられています。
治承5年(1181)9歳の春、伯父の範綱〈のりつな〉に伴われ、京都三条白川にある慈円〈じえん〉の坊舎において得度し、範宴〈はんねん〉と名のられま した。出家すると比叡山に登り、以後20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。比叡山は宝亀4年(785)、伝教大師(最澄)によって 開かれた仏道修行の根本道場です。親鸞聖人は横川の首楞厳院の堂僧として修行に励まれました。堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧のことをいいます。

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親鸞聖人御影(鏡御影)本願寺蔵

親鸞聖人は20年にわたる修学にもかかわらず、自力聖道門では生死〈しょうじ〉を解決することができず、建仁元年(1201)29歳の時、比叡山を下り聖徳太子の創建された六角堂(頂法寺)に参籠されました。親鸞聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」として尊敬されていましたので、今後の歩むべき道を尋ねられたのです。参籠してから95日目の暁、聖徳太子の夢告をうけました。「廟窟偈〈びょうくつげ〉」とも「行者宿報偈〈ぎょうじゃしゅくほうげ〉」ともいわれる夢告に促されて、東山吉水で専修念仏を説かれていた源空聖人を訪ね門弟となりました。そのときの様子について『恵信尼文書〈えしんにもんじょ〉』には、六角堂に参籠されたときと同じように、どんな天気であっても、どんな事があっても、ひたすら「生死出づべき道」を求めて通いつづけたと記されています。

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恵信尼公御影龍谷大学図書館蔵

源空聖人の門下 に入った親鸞聖人は、元久2年(1205)4月14日、源空聖人の主著である『選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう〉(選択集)』の書写 と、源空聖人の真影を図画することが許されています。その際に、源空聖人はみずから筆をとり「選択本願念仏集」の内題の字に、「南無阿弥陀仏 往生之業  念仏為本」の字と「釈綽空〈しゃくのしゃっくう〉 」という当時の親鸞聖人の名を書いて与えられました。同年7月には、源空聖人の真影に讃銘と夢告によって改名された 善信〈ぜんしん〉の名を書いてもらっています。

承元元年(建永2年・1207)念仏弾圧によって、専修念仏は停止〈ちょうじ〉され、門弟4名が死罪、源空聖人、親鸞聖人等の8名が流罪となりました。このとき親鸞聖人は越後(現在の新潟県)に流され、非僧非俗の道を歩まれました。妻の恵信尼〈えしんに〉さまは越後の豪族、三善為教〈みよしためのり〉の娘といわれています。 流罪は建暦元年(1211)に解かれていますが、帰洛されることなく建保2年(1214)、妻子とともに常陸(現在の茨城県)に移住され、関東で約20年におよぶ伝道生活をおくられました。62、3歳の頃に帰洛されていますが、その理由は明らかではありません。帰洛された親鸞聖人は、畢生の書である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を加筆訂正されたり、『浄土和讃』『高僧和讃』の執筆や門弟の質問に書簡で答えたりされていました。建長初年(1249)頃から、関東の門弟間で念仏理解についての混乱が生じ、その解決をはかるために、親鸞聖人は息男の慈信房善鸞〈じしんぼうぜんらん〉を名代として関東へ派遣しました。

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顕浄土真実教行証文類(行巻)本願寺蔵

しかし善鸞は混乱に巻き込まれてしまい、親鸞聖人の説くところと違った教えを説いて、いよいよ混乱させることになりました。それを知った親鸞聖人は、建長8年(1256)、84歳のとき、善鸞を義絶〈ぎぜつ〉し親子の縁を絶ってしまいました。
聖人の撰述には、前記の書をはじめとして、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『正像末和讃』『三経往生文類』『尊号真像銘文』『一念多念証文』『唯信鈔文意』などがありますが、その多くは80歳を過ぎてから著されたものです。
弘長2年(1262)11月28日、波乱にとんだ生涯ではありましたが、弟尋有〈じんう〉の坊舎で末娘の覚信尼〈かくしんに〉さまらに見守られながら90歳で往生されました。