法話集・寺院向け案内

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読む法話 「回向を首としたまひて」(益城町 益北組 壽徳寺 河邉梨奈)

2026/09/01 09:00

 保護者同士のお付き合い、いわゆるママ友さんとのお喋りの中で、思いがけずおみのりに遇わせていただいたことがあります。
 ママ友Aさんの娘さんが大学に通いながら一人暮らしをされていたころ、一本の電話がAさんにかかって来たそうです。
 「ママ、助けて」
 泣いている娘さんによると、悪徳な業者に高額の支払いを強いられたとのこと。路上でエステティックサロンのキャッチに声をかけられ、お試しキャンペーン中だからと言葉巧みに店内へ誘い込まれたのだそうです。

 あれよあれよという間に大勢の店員に囲まれ、威圧的な口調で圧力をかけられ、あまりの恐怖に逃げ出すことも出来ず、高額なコースを契約させられたのでした。
 泣き寝入りしたものの、いたたまれなくなって母親に顛末を打ち明けたのでしょう。
 ごめんなさいと泣きじゃくる娘さんを助けてやりたかったけれど、時間が経ちすぎており、返金はかなわなかったとのことでした。

 この後のAさんの言葉に私は興味をそそられたのです。
「あれから、私の所へ詐欺の電話の一本でもかかって来ないかなぁ、と手ぐすね引いて待っているんだけどね。全然かかってこないのよね」
 かかって来てほしい、というのです。
 何故!?と問うた私にAさんは
 「娘を酷い目に遭わせた業者に直接仕返し出来ないのは分かっているけれど、それでもやっつけてやりたい。仇を討ってやりたいの。」
 仕返し、仇討ち、やっつけるなど、次々飛び出す迫力のありすぎる言葉の数々。しかし、そんなAさんの心の底をよくよく覗いてみれば、それは間違いなく我が子への愛情から発せられた言葉でした。

 この私は、愛する=優しく明るい感情、憎む=怖い暗い感情、と分類したがる癖を持っています。しかし喜怒哀楽と名づけられる様々な感情は、実際には独立した四つに明確に分けられるものではありません。
 何かの感情が表に出る時、他の感情もまた複雑に絡み合い、必ず芋づるのように繋がって出てくるのです。
 「この子が可愛くて哀れでたまらないから、あいつをやっつけてやる。」
 これほど相反する感情の動きに対し、何の疑問も持たずに、むしろ共感さえして生きていくのがこの私です。

 このように自分の心でありながら制御が不能で、感情の波に翻弄され続け、自らの力でさとりに至ることができないような私を、苦悩の有情と見抜かれた阿弥陀仏は、この私ひとりを見捨てず救うはたらきを完成されました。
 『如来の作願をたづぬれば
  苦悩の有情をすてずして
  回向を首としたまひて
  大悲心をば成就せり』(正像末和讃)
 
 自覚することも改めることも期待出来ない私のために、己の全てを注ぎ込む(回向)のを第一(首)として下さったのです。
 私の口から出るはずのなかったお念仏が、たとえ棘のある声や涙声であっても聞こえてくるならば、そして日常の暮らしの中の、ふとした瞬間におみのりに遇わせていただくならば、それは阿弥陀仏のおはたらきの姿なのです。

読む法話 「ご恩に包まれて」(湯前町 球磨組 明導寺 藤岡教顕)

2026/08/01 09:00

 熊本県南部を襲った「令和二年七月豪雨」から、7月4日で6年目を迎え、本願寺人吉別院にて七回忌法要をお勤め致しました。まだまだ完全復興とは言えず、河川・山林・鉄道など復旧工事が継続して行われています。発災後、検証が続けられた中で、猛烈な豪雨により河川の氾濫は「川の津波」とも言われ、県内で67名の方の大切ないのちが奪われ、いまだに2名の方が行方不明。現在も仮設住宅で過ごされている状況を見るとき、完全復興への道のりは長く険しいものであると感じています。
 
 さて、私たちは6年前の豪雨被害による辛く苦しい経験だけではなく、人間関係で悩み苦しんだこと、大切な方がいのちを終えていかれたことなど辛かった経験を引きずり、「なぜ、こんな目に遭わないといけないの」と過去を悔んだり、「あのとき、こうしておけばよかった」と後悔の念に駆られることも多いのかもしれません。
 感情論に振り回されること無く、冷静にこの思考回路を辿ってみると、「過去」というものが、どこかにあるわけではなく、「過去」という「記憶」を辿りながら、自分自身で「悪い出来事」「辛かった思い出」と判断し、心に刻んでいるのです。
 
 私たちの人生には、誰もが絶望の淵を彷徨うような本当につらい過去が存在します。起きてしまったその事実は、決して変えることができません。しかし、その事実ををどう受け止めるかによって、その事実の意味が変わってゆくのです。
 振り返ってみれば、発災直後から本当に多くの方々の支えがありましたが、その中でも、過去に被災経験のある方々から数多くのご支援をいただきました。
 
「私たちも被災しましたが、本当に多くの方々のご支援によって復興することができました。今回は、その『恩送り』です。少しでもお役に立てたら幸いです。」
 
 ご自身が被災された経験を軸として、長く読みづらい文章ではなく、右記の簡潔で力強いお手紙を添えて送り届けてくださった支援物資。リアルタイムで必要としている物を分別しやすいように梱包されていた細やかな配慮が本当に有難かったことを記憶しています。
 
 世間では「恩返し」ということばが主流となっており、スポーツでの勝利者インタビューでも「今日の優勝が親への恩返しになったと思います」というフレーズを聞きますが、いただいたご恩をすべて返すことは決して出来ることではありません。
 
 「恩」の原語であるパーリ語の「カタンニュー」は、「なされたことを知る」という意味であり、以下の3つの特徴があると味わっています。
 ・こちらから求めて与えられたものではなく、こちらが求めるより先に届けられている
 ・小さい恩には気づけるが、その恩が大きくなればなるほど気づけない
 ・「恩返し」とよく言われるが、決して返しきれるものではない
 
 以前、梅雨時期の明導寺掲示板に
 「雨の日の傘の有難さはわかるけど、屋根のご恩は大きすぎてわからない」
という言葉を掲示したことがありました。

 雨の多い時期には傘の存在は大変有難く、雨降る道中も傘があれば凌ぐことができますが、自宅に到着すると、そこには屋根が存在することから、当然のように傘をたたみます。ここで本来ならば、感謝の思いが「傘」から「屋根」へとシフトすべきところですが、「雨が降り出したけれど、傘があってよかった」という声はよく聞きますが、「雨が降っているけれど、家に屋根があってよかった」とは言い難い現状があります。「傘」と「屋根」の双方とも、雨で濡れることを防いでくれているのに何故でしょうか?
 「傘」には感謝の念を抱いても、「屋根」にその思いが湧いてこないのは、その「ご恩」があまりにも大きくて、当たり前だと捉えてしまっているのです。
 常におぼつかない足取りの自分自身を振り返ってみると、大きい「屋根」のような数々の「ご恩」に支えられ生かされているよにもかかわらず、身近で分かりやすいはずの「傘」にさえも感謝の念を抱いていない現状があります。
 そのような私にも、「屋根」とは比較にもならない阿弥陀さまの無限のはたらきが求めるより先に届けられ、包まれ育まれながら、お慈悲の中で生かされているのです。
 
 日々の暮らしの中で、様々な「ご恩」に支えられ生かされている事実を受け止め、私自身を根本から支えてくださる阿弥陀さまのおはたらきに感謝しながら、このたびの豪雨被害をご縁として、全国の皆様方から頂いた有難きご支援を「恩送り」として広げて参りたいと思います。
 「令和二年七月豪雨」の出来事は、本当に辛く苦しい過去であることには変わりませんが、いかなる状況にあろうとも寄り添い続けてくださる阿弥陀さまの温もりを頂くとき、「辛かっただけの過去」が「意味ある過去」へと転換されてゆくのです。



※この原稿は、7月28日に発災した「令和8年熊本地震」以前に執筆されました。センシティブな内容を含みますが、そのまま掲載させていただきます。この度の地震により被害に遭われたすべての皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

読む法話 「じゃない方のいのちだった私」(嘉島町 緑陽組 光勝寺 谷本健人)

2026/07/01 09:00

「法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)
 在世自在王仏所(ざいせじざいおうぶっしょ)
 覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)

 国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんまく)
 建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
 超発稀有大弘誓(ちょうほつけうだいぐぜい)」    『正信偈(しょうしんげ)』より

(現代語訳)
「法蔵菩薩の因位のときに、 世自在王仏のみもとで、仏がたの浄土の成り立ちや、 その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって、この上なくすぐれた願をおたてになり、 世にもまれな大いなる誓いをおこされた。」


 

 このご法話を書かせていただいている今現在、2026北中米ワールドカップの真只中であります。我々のサムライブルーもF組2位でグループリーグの突破を決めたところです。かく言う私も高校1年生までは、サッカーに打ち込み未来のサムライブルーを目指していました。そのせいか、こと日本のサッカーの発展に並々ならぬ思い入れがあり、連日食い入るように試合を観戦しております。

 私は愛知県や名古屋市の選抜に入る程にサッカーに打ち込んでいたのですが、中学や高校に上がるころには挫折をし、競技者としての未来に絶望を感じ始めていました。その頃に出会ったのがバンド活動。いわゆる音楽の世界でした。勝ち負けの論理ではない音楽の世界は、それまで受験やサッカーという勝ち負けの論理しか知らなかった私にとって、とても居心地が良いものでした。そのバンド活動を原点とし、表現というものに興味を持ち始め、私は芸術大学に進みました。芸術大学にもフットサルサークルがあり、私も顔を出すようになりました。周りの人はサッカーは好きだけど、決して上手という訳ではありませんでしたが、久しぶりにボールに触れてみると、上手い下手に関わらず、皆で一つのボールを追いかけあう面白さや、サッカーを始めたころの感覚を思い出しました。サッカーをやめてボールにすら触りたくないと思っていた私ですが、一度勝ち負けの論理を離れ、芸術という価値観から改めてサッカーに触れてみて、私は再びサッカーというものと出会いなおした感じがしました。

 オリンピックやワールドカップなど、競技としてのスポーツは、誰が一番かを決めることに大きな価値を見出します。現に、メダルを取った人や、優勝をした人しか中々記憶には残っていないのではないでしょうか。しかしそこに至るには、無数の敗者というものが存在するのです。優勝する人がスポットライトを浴びる中、その影にはスポットライトの当たらない敗者がいるのです。

 さてここからは本日最初に上げさせていただきました、お正信偈というお経さまのお言葉のことをお話しさせて頂きたいと思います。

 数多いらっしゃる仏様の世界でも、これまでスポットライトが当たらなかった者にこそスポットライトを当てようとお思いになられた方がいらっしゃいました。それが阿弥陀如来という仏様でした。阿弥陀如来という仏様は元々法蔵菩薩というお名前で、お師匠様の世自在王仏のみもとで修行をされておりました。その時法蔵菩薩は世自在王仏に「私がさとりを開き自らの国を創るときの参考にしたいと思いますから、世自在王仏様の神通力によってこの世界のありとあらゆる全てのこと、またこれまでにお出ましになられた様々な仏様が、それぞれお創りになった世界の様相を見せて頂けませんか」とお願いをされるのです。すると世自在王仏も法蔵菩薩の熱意に負けて、ありとあらゆる世界と、これまでにお出ましになられた様々な仏様がお創りになられた世界のことを見せてくださいました。その時に、煩悩という自己中心的な考えしか出来ず、迷いの世界から抜け出すことが出来ない、自らではさとりを開く素質もないような私の姿を見つけて下さいました。そして法蔵菩薩は世自在王仏にむかって「私は、煩悩を断ち切ることが出来ず、自らでさとりを開く素質のない者を必ず救うことが出来る仏に成りたいと思います。そして必ずその者を救うための修行を成し遂げ、仏と成ってみせます」と誓いを立てられるのです。そしてそこから途轍もない程長い時間、苦しい修行を成し遂げられ阿弥陀如来という仏様になって下さいました。

 「修行に耐えうる忍耐力をもっているなら救ってやろう」とか「あなたがもし清らかな心を身につけたのであれば救ってやろう」とか、これまでにお出ましになられた仏様も様々な救いの手立てを拵(こしら)えて下さいましたが、私を無条件で救うというような、言わば絶対にスポットライトの当たるはずのなかった者にこそスポットライトを当て、救いの目当てとして下さる仏様はいらっしゃいませんでした。

 そしてこの阿弥陀如来という仏様は私がどのような生き方をしていようとも、私に「南無阿弥陀仏」のお念仏となって届き、「あなたを必ず救う仏がここに来ているぞ。何も心配することはないぞ」といつも私にご一緒して下さっているのです。

 この娑婆という世界を生きていると、私たちは優れたものや人にこそ価値があると思い込んでしまいますが、阿弥陀様のお話を聞かせて頂くと、優れたものだけに意味や価値があるのではなく、元々それぞれがそのままで尊く、価値のある存在だということに気付かせて頂けるような気がします。

 そのような事を感じさせて頂いたワールドカップのご縁でした。

読む法話(和水町 玉関組 正元寺 寺添 和南)

2026/05/01 09:00

今回の「読む法話」は、原稿にパソコン上では表示できない文字がございましたので、いただいた原稿そのままを掲載させていただきます。

閲覧の皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解の程、よろしくお願いいたします。

可能であれば、ご自身のパソコンやスマートフォン等にダウンロードし、お読みいただけますと幸いです。

※画像をクリックすると拡大表示されます

読む法話「迷いの人生」(玉名市 高瀬組 安楽寺 入江 祥裕)

2026/04/01 09:00

 以前このような話を聞かせていただきました。
 
 時間は過去と現在と未来に分けられます。では、未来は前と後ろ、どちらにあると思いますか?と質問されたらどちらに指を差しますか?前ですか後ろにあると思いますか?大体、前に指をさす方が多いのではないでしょうか。皆さんの未来は前ですね。

 前という漢字は「まえ」以外に「さき」とも読みます(青森県の弘前<ひろさき>市が有名ですね)。後ろという漢字は「のち、あと」と読みます。そうしたら、なぜ昨日のことは一日前というのでしょうか?一昨日のことは二日前といったり、去年のことは一年前というんでしょうか?また、明日のことは一日後と表現します。明後日のことは二日後、来年のことは一年後といいます。
 
 何がいいたいかというと、前は未来ではないということです。その証拠に私から見える方を前といいます。未来は「いまだ来たらず」ですから何も見えません。つまり前は過去です。「あの時はこうだったな。あの時はあーだったな」と過去は見えます。見えているものは過去の事ばかりで、明日どうなっているのか。明後日、一ヶ月後、来年どうなっているということはわかりません。何一つ見えていません。なぜか。それは未来を背にして後ずさりしながら生きているからです。

 つまり私たちの人生は生まれた時から、前を向いて歩いている人生ではなかったということです。我々は生まれてどんな人生歩んできたか、それは後ずさりをしながら生きてきたということです。これこそ私たちが人生を歩んでいる本当の姿だったんです。その事に誰も気づいていません。
後ずさりの人生は怖いです。どこに向かって歩んでいるかわかりません。しかも何があるかわからなければ、何に当たるかわからない。人にぶつかるかもしれない。私は人生をそんな姿で歩んでいるんです。だからどこに向かっているかわからない。この姿を「迷いの人生」といいます。
 
とお話しされました。
 
 私たちは生まれてからこの方、後ずさりしながら迷いの人生を歩み続けてきました。そういう私たちの姿をご覧になり「これは危なっかしい、ほおってはおけん」と自ら立ち上がり、自ら私たちを抱きとり「あなたのいのちの行き先はもう定めておきました。だからどうかその人生、お浄土に生まれるいのちといただきながら歩んでおくれ」と願い、導いてくださる仏さまが阿弥陀如来という仏様です。その言葉を素直に受け入れた時、迷いの人生を顧みながらも確かな人生が恵まれるのではないでしょうか。

読む法話「いのちの終わり」(宇土市 宇土北組 宝林寺 經 智敬)

2026/03/01 09:00

 寒さ厳しいなかにも梅がつぼみをふくらませちらほらと花を咲かせているのを見ると春のおとずれを感じます。
 春を迎えるといろいろな花が次から次に咲き始めますしかし、その咲きほこった花もやがては散っていく


 こんなうたがあります


  桜散る 梅はこぼれる 椿落つ 牡丹崩れて 菊は舞う

 花のいのちの終わりを喩あらわしたうたです。


 桜は散り際の潔さから散る言い、

 梅は丸みのある花弁の散り際がぽろぽろと涙をこぼすように見えることからこぼれると言い

 椿はポトリと落ちる」と、牡丹は花弁の大きさから崩れると言い
 菊は枯れた時の花弁が勢いよく散るところから舞うと言われています。

 

 ちなみに、朝顔はしぼむ、紫陽花は枯れたままその場に残るのでしがみつくと言うそうです。
 このように、それぞれの花にいのちの終わりを喩えた言葉があるのです

 

 では、私たちはどのようにいのちを終えていくのでしょうか
 一般にはあの方は死んだ、あの人は亡くなった」のだと言われます
 しかし、それぞれの尊い人生を歩んだそのいのちの終わりが、ただ「死んだ亡くなったと言われるだけなのはとてもさびしく思います。
 私たちは、阿弥陀さまのみ教えをいただいています南無阿弥陀仏とお念仏申させていただく身にならせてもらいました
 お念仏をよろこぶものは死んで終わるのではなく、「亡くなっいくのでなく、「生まれ往くのだと聞かせていただきました。

 

 親鸞聖人のご和讃に

  生死(しょうじ)の苦海ほとりなし 久しくしずめるわれらをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける

とあります。


 迷いの中にしずんでいるこの私を必ずおさめとる仏さま。

 乗りて必ずではなく乗せて必ずとはたらいてくださりどのような人生であっても決して見はなさずこの私を抱き取って仏とならしめお浄土へと生まれさせてくださる仏さまが阿弥陀さまなのです。