法話集・寺院向け案内
読む法話 「じゃない方のいのちだった私」(嘉島町 緑陽組 光勝寺 谷本健人)
「法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)
在世自在王仏所(ざいせじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)
国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんまく)
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
超発稀有大弘誓(ちょうほつけうだいぐぜい)」 『正信偈(しょうしんげ)』より
(現代語訳)
「法蔵菩薩の因位のときに、 世自在王仏のみもとで、仏がたの浄土の成り立ちや、 その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって、この上なくすぐれた願をおたてになり、 世にもまれな大いなる誓いをおこされた。」
このご法話を書かせていただいている今現在、2026北中米ワールドカップの真只中であります。我々のサムライブルーもF組2位でグループリーグの突破を決めたところです。かく言う私も高校1年生までは、サッカーに打ち込み未来のサムライブルーを目指していました。そのせいか、こと日本のサッカーの発展に並々ならぬ思い入れがあり、連日食い入るように試合を観戦しております。
私は愛知県や名古屋市の選抜に入る程にサッカーに打ち込んでいたのですが、中学や高校に上がるころには挫折をし、競技者としての未来に絶望を感じ始めていました。その頃に出会ったのがバンド活動。いわゆる音楽の世界でした。勝ち負けの論理ではない音楽の世界は、それまで受験やサッカーという勝ち負けの論理しか知らなかった私にとって、とても居心地が良いものでした。そのバンド活動を原点とし、表現というものに興味を持ち始め、私は芸術大学に進みました。芸術大学にもフットサルサークルがあり、私も顔を出すようになりました。周りの人はサッカーは好きだけど、決して上手という訳ではありませんでしたが、久しぶりにボールに触れてみると、上手い下手に関わらず、皆で一つのボールを追いかけあう面白さや、サッカーを始めたころの感覚を思い出しました。サッカーをやめてボールにすら触りたくないと思っていた私ですが、一度勝ち負けの論理を離れ、芸術という価値観から改めてサッカーに触れてみて、私は再びサッカーというものと出会いなおした感じがしました。
オリンピックやワールドカップなど、競技としてのスポーツは、誰が一番かを決めることに大きな価値を見出します。現に、メダルを取った人や、優勝をした人しか中々記憶には残っていないのではないでしょうか。しかしそこに至るには、無数の敗者というものが存在するのです。優勝する人がスポットライトを浴びる中、その影にはスポットライトの当たらない敗者がいるのです。
さてここからは本日最初に上げさせていただきました、お正信偈というお経さまのお言葉のことをお話しさせて頂きたいと思います。
数多いらっしゃる仏様の世界でも、これまでスポットライトが当たらなかった者にこそスポットライトを当てようとお思いになられた方がいらっしゃいました。それが阿弥陀如来という仏様でした。阿弥陀如来という仏様は元々法蔵菩薩というお名前で、お師匠様の世自在王仏のみもとで修行をされておりました。その時法蔵菩薩は世自在王仏に「私がさとりを開き自らの国を創るときの参考にしたいと思いますから、世自在王仏様の神通力によってこの世界のありとあらゆる全てのこと、またこれまでにお出ましになられた様々な仏様が、それぞれお創りになった世界の様相を見せて頂けませんか」とお願いをされるのです。すると世自在王仏も法蔵菩薩の熱意に負けて、ありとあらゆる世界と、これまでにお出ましになられた様々な仏様がお創りになられた世界のことを見せてくださいました。その時に、煩悩という自己中心的な考えしか出来ず、迷いの世界から抜け出すことが出来ない、自らではさとりを開く素質もないような私の姿を見つけて下さいました。そして法蔵菩薩は世自在王仏にむかって「私は、煩悩を断ち切ることが出来ず、自らでさとりを開く素質のない者を必ず救うことが出来る仏に成りたいと思います。そして必ずその者を救うための修行を成し遂げ、仏と成ってみせます」と誓いを立てられるのです。そしてそこから途轍もない程長い時間、苦しい修行を成し遂げられ阿弥陀如来という仏様になって下さいました。
「修行に耐えうる忍耐力をもっているなら救ってやろう」とか「あなたがもし清らかな心を身につけたのであれば救ってやろう」とか、これまでにお出ましになられた仏様も様々な救いの手立てを拵(こしら)えて下さいましたが、私を無条件で救うというような、言わば絶対にスポットライトの当たるはずのなかった者にこそスポットライトを当て、救いの目当てとして下さる仏様はいらっしゃいませんでした。
そしてこの阿弥陀如来という仏様は私がどのような生き方をしていようとも、私に「南無阿弥陀仏」のお念仏となって届き、「あなたを必ず救う仏がここに来ているぞ。何も心配することはないぞ」といつも私にご一緒して下さっているのです。
この娑婆という世界を生きていると、私たちは優れたものや人にこそ価値があると思い込んでしまいますが、阿弥陀様のお話を聞かせて頂くと、優れたものだけに意味や価値があるのではなく、元々それぞれがそのままで尊く、価値のある存在だということに気付かせて頂けるような気がします。
そのような事を感じさせて頂いたワールドカップのご縁でした。
読む法話(和水町 玉関組 正元寺 寺添 和南)
今回の「読む法話」は、原稿にパソコン上では表示できない文字がございましたので、いただいた原稿そのままを掲載させていただきます。
閲覧の皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解の程、よろしくお願いいたします。
可能であれば、ご自身のパソコンやスマートフォン等にダウンロードし、お読みいただけますと幸いです。
読む法話「迷いの人生」(玉名市 高瀬組 安楽寺 入江 祥裕)
以前このような話を聞かせていただきました。
時間は過去と現在と未来に分けられます。では、未来は前と後ろ、どちらにあると思いますか?と質問されたらどちらに指を差しますか?前ですか後ろにあると思いますか?大体、前に指をさす方が多いのではないでしょうか。皆さんの未来は前ですね。
前という漢字は「まえ」以外に「さき」とも読みます(青森県の弘前<ひろさき>市が有名ですね)。後ろという漢字は「のち、あと」と読みます。そうしたら、なぜ昨日のことは一日前というのでしょうか?一昨日のことは二日前といったり、去年のことは一年前というんでしょうか?また、明日のことは一日後と表現します。明後日のことは二日後、来年のことは一年後といいます。
何がいいたいかというと、前は未来ではないということです。その証拠に私から見える方を前といいます。未来は「いまだ来たらず」ですから何も見えません。つまり前は過去です。「あの時はこうだったな。あの時はあーだったな」と過去は見えます。見えているものは過去の事ばかりで、明日どうなっているのか。明後日、一ヶ月後、来年どうなっているということはわかりません。何一つ見えていません。なぜか。それは未来を背にして後ずさりしながら生きているからです。
つまり私たちの人生は生まれた時から、前を向いて歩いている人生ではなかったということです。我々は生まれてどんな人生歩んできたか、それは後ずさりをしながら生きてきたということです。これこそ私たちが人生を歩んでいる本当の姿だったんです。その事に誰も気づいていません。
後ずさりの人生は怖いです。どこに向かって歩んでいるかわかりません。しかも何があるかわからなければ、何に当たるかわからない。人にぶつかるかもしれない。私は人生をそんな姿で歩んでいるんです。だからどこに向かっているかわからない。この姿を「迷いの人生」といいます。
とお話しされました。
私たちは生まれてからこの方、後ずさりしながら迷いの人生を歩み続けてきました。そういう私たちの姿をご覧になり「これは危なっかしい、ほおってはおけん」と自ら立ち上がり、自ら私たちを抱きとり「あなたのいのちの行き先はもう定めておきました。だからどうかその人生、お浄土に生まれるいのちといただきながら歩んでおくれ」と願い、導いてくださる仏さまが阿弥陀如来という仏様です。その言葉を素直に受け入れた時、迷いの人生を顧みながらも確かな人生が恵まれるのではないでしょうか。
読む法話「いのちの終わり」(宇土市 宇土北組 宝林寺 經 智敬)
寒さ厳しいなかにも梅がつぼみをふくらませ、ちらほらと花を咲かせているのを見ると春のおとずれを感じます。
春を迎えるといろいろな花が次から次に咲き始めます。しかし、その咲きほこった花もやがては散っていく。
こんなうたがあります。
桜散る 梅はこぼれる 椿落つ 牡丹崩れて 菊は舞う
花のいのちの終わりを喩えあらわしたうたです。
桜は散り際の潔さから「散る」と言い、
梅は丸みのある花弁の散り際がぽろぽろと涙をこぼすように見えることから「こぼれる」と言い、
椿はポトリと「落ちる」と、牡丹は花弁の大きさから「崩れる」と言い、
菊は枯れた時の花弁が勢いよく散るところから「舞う」と言われています。
ちなみに、朝顔は「しぼむ」、紫陽花は枯れたままその場に残るので「しがみつく」と言うそうです。
このように、それぞれの花にいのちの終わりを喩えた言葉があるのです。
では、私たちはどのようにいのちを終えていくのでしょうか
一般には、あの方は「死んだ」、あの人は「亡くなった」のだと言われます。
しかし、それぞれの尊い人生を歩んだそのいのちの終わりが、ただ「死んだ」、「亡くなった」と言われるだけなのはとてもさびしく思います。
私たちは、阿弥陀さまのみ教えをいただいています。南無阿弥陀仏とお念仏申させていただく身にならせてもらいました。
お念仏をよろこぶものは、死んで「終わる」のではなく、「亡くなっていく」のでもなく、「生まれ往く」のだと聞かせていただきました。
親鸞聖人のご和讃に、
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし 久しくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
とあります。
迷いの中にしずんでいるこの私を必ずおさめとる仏さま。
「乗りて必ず」ではなく「乗せて必ず」とはたらいてくださり、どのような人生であっても決して見はなさず、この私を抱き取って仏とならしめお浄土へと生まれさせてくださる仏さまが阿弥陀さまなのです。
読む法話「遠仁者疎道、富久者有智」(宇城市 益西組 正壽寺 旭 啓寿)
漢字の読み替えで成り立つことばの面白さもありますが、仁(他から受けた事に感謝する心)に遠い人は道に疎い(道を間違う)、本当に心豊かな人は本当の智慧がある、つまり物事を正しく見つめる事ができる。という味わいのことばになっています。
節分といえば鬼がつきものですが、鬼とは元々「隠」と書いて、目には見えないけれど恐れたり不安の原因となるもの、つまり心の中にある良くない感情なども含めた意味のものでした。欲も怒りも手に負えない私も鬼である、という見つめ方もそこにはあったのでしょう。
私たちは日暮しの中で、どうしても私が中心の視点からものごとを見つめます。「かけた情は水に流せ、うけた情は石に刻め」(人の為に何かをしても忘れ、人からうけた恩は大事に)という訓語もありますが、むしろ逆に自分がした事ばかり手柄かのように覚えて、うけた様々なご恩の方を忘れる生き方をする私は「鬼」をかかえた姿といえます。
「智慧」とは、私を見つめ照らし出す仏様のまなざしによって、私の有り様を明らかにするはたらきです。明らかにしたうえで「あなたをかならず引き受ける」仏となって下さったのが、阿弥陀さまでありました。
「鬼」の私には仏様の智慧の眼の様な物事の見方はできませんが、お念仏にであい、仏様を拠り所とする歩みのなかで、自己中心の視点からほんの少し、まわりの多くの(お蔭様)で支えられた人生を歩んでいる私です。と受けとめながら、日々を味わえる私でありたい2月です。
新年のご挨拶 熊本教区教務所長・熊本別院輪番 大辻󠄀子 順紀
慈光迎春
お念仏とともに新年を迎えられましたこと、お慶び申しあげます。
さて、昨年は先の大戦終結から80年の節目の年でございました。終戦から80年以上経った今日、実際に戦争を体験されている世代が高齢化し、数少なくなられていることに加えて、これまでに経験したことのない異常気象が甚大な被害をもたらす自然災害に毎年のように直面するなどによって、戦争がもたらした計り知れないその悲しみは過去のこととして忘れ去られ、近い将来、平和実現のための取り組みが後回しになってしまうのではないかとの強い懸念を抱くことでございます。
80年前の7月1日そして終戦間近の8月10日、ここ熊本も大空襲を受け469人もの尊い命が犠牲になりました。終戦末期はこのように日本各地で空襲が激化し、全国で41万人もの民間人が犠牲になったと言われています。
そしてその終戦から80年の現代にあってもロシア連邦によるウクライナへ軍事侵攻やイスラエルとイスラム組織ハマスの軍事衝突、イスラエル・イラン相互の軍事行動、そこへアメリカの軍事介入など、各地の紛争、内戦、争いは絶えることなく、罪のない多くの人々が命の危機に晒されています。
この日本においても「台湾有事」への備えと称して沖縄県の離島や鹿児島県の島に自衛隊基地が建設されており、さらには昨年の国会における首相の「存立危機事態発言」によって日中関係が冷え込み、決して「対岸の火事」ではありません。
言うまでもありませんが、戦争は人間によるもっとも愚かで醜い所業であり、いかなる理由があろうともそれは決して正当化されるものではなく、絶対に許されるべきことではありません。武力によって真の平和を実現することは、できないのです。しかし、私たちは長く続くことでそのことに慣れてしまい、関心が希薄になっていくことこそが、私たちにとって最も恐れなければならないことであり、無関心が私たちの最大の敵であり脅威であります。
釈尊は『法句経』に「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。」と、どこまでも非暴力を貫く生き方をお説きくださいました。しかし我が教団は、先の大戦に積極的に加担したという過去の事実があります。そうした過去を謙虚に反省し、戦争がもたらす痛ましく悲惨な事実や数えきれないほどの悲しい死別の上に私たちが生かされているということ、犠牲になられた方々の無念さや思いを背負っていく責務があるということを次の世代へしっかりと伝えねばなりません。
そして親鸞聖人のお示しくださいました「世の中安穏なれ仏法ひろまれ」また「御同朋・御同行」とのお心にかなうよう、お念仏申させていただきながら、自他ともに心豊かに生きていくことのできる「非戦平和」の世界の実現に微力ながら努めさせていただくことでございます。
本年もお念仏を慶ばせていただきながら職員とともに精進してまいりますので、皆さまには引き続き、ご教導たまわりますようお願い申しあげ新年のご挨拶といたします。
合掌





