法話集・寺院向け案内
読む法話「「また来るけんね」は母のよび声」 (八代市種山組大法寺 大松 龍昭)
九十を過ぎて次第に認知症が進んで以降、母は長姉の家に住まいを移し、そこで最後まで過ごしました。
亡くなる二か月ほど前のことです。発熱して母は近くの病院に入院しました。姉は母が寝たきりなることを心配し、熱が下がったら一旦退院させ、リハビリができる通所していた施設に移すつもりでした。しかし、私がその病院に初めて足を運んでその母の姿をみた時、「これはここを出ることはあるまい。きっとここが最後になるだろう」と私なりに気づきました。私はこれまで亡くなったご門徒さんの姿に何度も出あってきましたが、そのご門徒さんの姿とその時の母の姿が、完全に重なって見えたからです。なのでそれからは「次はない。これが最後なのだ」と自分に言い聞かせて見舞っていました。
ところが結果的に最後の見舞いとなったその日、看護師さんが「だいぶ食欲が落ちられました」と仰ったので、私は母に「ご飯は無理してでも食べなあかんよ」と声をかけ、母も理解したかのように二、三度頷きました。そしてその日、私は帰り際に母に「また来るけんね」と言ったのです。
確かに見舞いの帰りに「二度と来んけんね」と言って去る人はいないでしょう。「次に来るまで元気にしていてね」という思いで「また来るけんね」と言うのは、至って普通なことです。しかし、「次はない、これが最後だ」と自分に言い聞かせていた私は、この言葉がこの口から出たことに愕然としました。
この命は先送りなどできないものであること、明日とも今日とも知れない命をいま不思議にも生かされていること、したがってこの今を決して疎かにしてはならんのだということをこれまで何度も学んできたつもりだったのに、この口は「また来るけんね」と間違いなく言ったのです。
私は「やはりそうか」とつくづく思いました。どれほど大切なことですら、やすやすと忘れてしまう身の上の事実を忘れていたことを。だからこの命が尽きるまで、大切なことは繰り返し気づき直していかねばならないということを、また改めて母から学ばせてもらったのだと思ったことです。
そしてもう一つ思ったのは、「また来るけんね」は私が言うべき言葉ではなかったということです。親鸞聖人が「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と明かされている通り、阿弥陀仏より施された(回向)お念仏の道とは、この私がお浄土へと行き生まれて仏と成る(往相)と同時に、仏と成るがゆえにこの娑婆世界に必ず還ってくる(還相)ということでありました。
どのようにしてこの私が仏縁に出あったかということについては、それぞれに背景がありましょう。ただ、自ら求めてというよりは、私が図らずして誰かに導かれて気がついたら出あっていた、ということが多いのではないでしょうか。例えば、あの人との別れという悲しみと痛みが縁となってこの教えに出あった、ということも少なくはないでしょう。
だとするならば、その私が称えるお念仏はそのまま仏と成った亡き方のお陰でこぼれたお念仏であり、その合わさった両手もまた仏と成った亡き方のお陰で合わさった両手ということになりましょう。そしてそこに気づかされてくると、この私の称えるお念仏の中に、この私の合わせた両手の中に、そのはたらきにいつだって出あえるのだということも明らかになってくるはずです。つまり仏と成った亡き方とは、私がお浄土に生まれねばあえないのではなく、いまここであえるということです。「還ってくる」とはそういうことを意味しているはずで、姿・形として見えてくるのではなく、はたらきとして感じ取り、聞き取っていくものだと私は思います。
そういう意味において、「また来るけんね」はそもそも私が言うべきものではなかったのです。「気づいている通り、私の死はもう間近だよ。でもね、心配はいらない。この命終えて速やかに仏と成って、貴方がお念仏を称えるその口元に、そして貴方が合わせるその両手の中に、必ず繰り返しまた還ってくるからね、そのことにどうか気づいておくれね」という、母のよび声でありました。そのように味わえた時に、母との別れがより一層尊いものに思えたことでありました。
読む法話「親しき友」 (嘉島町 緑陽組 法源寺 松本浩信)
他力とは他人の力ではなく、阿弥陀さまの本願の力です。本願とは阿弥陀さまの「根本の願い」すなわち「生きとし生けるものを救わずにはおれない」という強い願いです。その働きを他力というのです。そして、阿弥陀さまの本願を深く信じて疑わない心を信心というのです。
親鸞聖人は、
「他力の信心うるひとを うやまひおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ」
(『正像末和讃』)
と、ご和讃に記されました。お釈迦さまのお姿を経典より頂かれ、親鸞におきても同じ思いであることを伝えられたのです。
『仏説無量寿経』の下巻に『往覲偈(おうごんげ)』という偈文(げもん)があります。その後半に、お釈迦さまが敬い慶ばれ褒められた「親しき友」のことが書かれています。
「人のいのちはなかなか得がたいものだが、
それでも仏に遇うことはなお難しく、
信心の智慧を得ることはなおさらである。
ゆえにもし法を聞くことができたなら精進してさらに求めるがよい。
教えを聞き心にとどめてそれを忘れず、
仏を敬い信じて慶ぶものは、すなわちわが善き親友なり。」
得がたくして得たいのちは、明日をも知れぬ儚いご縁です。そのいのちは、多くのお陰さまに生かされています。そのひとつが食事です。私ひとつのいのちを支えるために、多くのいのちを毎日頂いているのです。
娘が中学生のとき、保護者会の手伝いをしていました。その時、教頭先生から
「ちゃんと給食費を払っていますから、うちの子には、給食の時、いただきますと言わせないでください」
と電話を掛けてきた保護者のことを伺いました。思わず笑ってしまったのですが、「いただきます」の大切な意味が伝わらない時代になったのかと、悲しい気持ちになりました。
そんな私たちに、ご縁を頂きみ教えに遇うことが出来たならば、
「精進してさらに求めるがよい。」
と勧めてくださいます。精進とは『聴聞の心得』に
一、この度のこのご縁は 初事と思うべし
一、この度のこのご縁は 我一人の為と思うべし
一、この度のこのご縁は 今生最後と思うべし
と示してあるように、いつ終わるとも知れないいのちのご縁を今日も頂き、み教えと出遇うことができたことを有難く勤めることです。
私たちは、見たり聞いたりしたことを、知識として覚えようとします。しかし、いつの間にか忘れてしまうことが殆どです。特に最近人の名前を思い出せないことがよくあります。「聴聞とは吸収すること」と言う言葉を聞いたことがあります。まさに阿弥陀さまのみ教えは、覚えることではなく我がいのちに向けられた阿弥陀さまの心願いそのままを受け取ることが大切なのです。
「教えを聞き心にとどめてそれを忘れず、仏を敬い信じて慶ぶもの」
親鸞聖人は、その姿を「他力の信心うるひと」と受け取られ、お釈迦さまが
「すなわちわが善き親友なり」
と慶ばれたことを、同じ思いであるとご和讃にて記されたのです。
読む法話「今日とも知らず明日とも知らず」 (氷川町 種山組 光澤寺 源明龍)
つい先日門徒さんの月命日でのことでした。
お勤め後のお茶を頂いて、くつろいでおりますと当然ご主人から声がかかりました。
「前住さん、アナタ(貴方)は、新聞ば読む時はどっかる(何処から)先ィ読みなはりますか?」
と。
「そりゃァ、まァ、えェと…、何処から読むと決めておるわけじゃありまっせんが。前日に、我が国も含めて世界で大きな事件や事故が起きましたら、一面から、次に相撲の興行中はスポーツ面、最後に社会面と番組欄でしょうかネ。」
と答えると、
「へェー、そりゃ若っか証拠ですバイ。」
「私どみャ、この歳(82歳)になっと、もう先の見えとりますけん、一面の次にゃ、『お悔やみ』欄ですバイ。のさった(あたえられた)命ば精一杯生きらした100歳を超えた人やそれに近い人、反対に未だ未だ今かると言う時にはってかした(亡くなられた)20代・30代の人、病気だったつだろうが、事故だったつだろうか、それとも自死だったろか、さぞかし縁者は愁嘆の坩堝(るつぼ)だったろうバイ、特に同年代の人の時には、胸を突かるるごたる思いがします。ほんに、人ごつじゃありまっせんなァ…。」
西行法師にこんな逸話があります。西行さんは、1118年京都に生まれ、1190年現在の大阪府南東部で亡くなられました。ここで少し、西行さんについてお話してみたいと思います。
西行さんは『新古今和歌集』等にも沢山の和歌が収録されています。23歳で出家され、僧侶になられる前は佐藤義清(のりきよ)といい、鳥羽上皇にも仕えた武術にも優れた北面(ほくめん)の武士であったといわれています。北面の武士とは、院御所(上皇が住む場所)の北側を警護する武士のグループのことです。文武にも長じていた彼が、若くして出家した理由には諸説有りますが、中でも刎頸(ふんけい)の友の死に無常の現実を痛感して、というのが有力のようですが、他に、こんな逸話も残されています。
未だ武士であった頃、私宅から院御所まで乗馬で伺候(しこう)途中、鳥辺山(とりべやま)という当時の火葬場の側を通る。毎日眺めて通っていたので火葬場の風景としては当たり前で、延々と立ちのぼる煙にも、特別、感傷的な気持ちは無かった。が、友を亡くしてからというもの、その煙が気にかかり出した。ある日、馬に揺られながらその煙が鼻に突いた時、ふっと上の句が口に出た。
「鳥辺山 昨日も煙 今日もまた・・・」
しかし、和歌には天賦の才有りと言われた西行さんも「下の句」が中々浮かばない。上の句を詠んだ数日後、御所へ伺候途中でのこと、今朝は風もなく幾本もの煙が、天に吸い込まれるように上がっていた。それを馬上から眺めて居た西行さん、突然馬が何に驚いたか、急にいなないた。その瞬間、夢から冷めたような西行さん、下の句が口を突いて出た。
「眺めて通る人はいつまで」。
即ち
「鳥辺山 昨日も煙 今日もたつ 眺めて通る 人はいつまで…。」
傍観している他人の死、しかし、次は私が他人から眺められていくのです。
蓮如上人(1415〜1499、本願寺八代目宗主)の御文章(お手紙)の中に
「われや先、人や先、きょうともしらずあすともしらず、朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり云々」
とご教化のように、明朝も今朝と代わらぬ陽が上ると私達は高を括っておりますが、如何なものでしょうか?
去る1月28日、埼玉県八潮市で起きた道路の陥没事故のことですが、ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。直進して来たトラックが、頑丈なはずのアスファルトの地面に突然大きな穴が空き、そこに運転手と車体ごと落下するという予想だにしない事故のことです。運転しておられたのは74歳の方で、懸命の捜索にも関わらず遺体はそれから4ヵ月後、下水道管から見つかった、という事故のことです。報道に拠りますと、この運転手さんは孫家族と一緒に生活する、寡黙な仕事人間で、暇を見つけては2人のひ孫の手を引いて散歩して居られたとのこと。
この人が朝仕事に出掛けられる時、孫やひ孫さん達から、
「おじいちゃん、今交通事故がとっても多いから気をつけてね。帰りはいつもの時間?じゃァ行ってらっしゃい」
と見送られ、
「行って来ます」
とアクセルを踏んだとき、果たして
「今日が私の命日になる」
など、思われたでしょうか…。
『無量寿経』に釈尊は
「世人薄俗にして、共に不急の事を諍う(世の中の人々は、まことに浅はかなもので、急がなくて良いことを互いに争いあう)」
と仰せられるように、無常迅速の世に生きて居りながら、私の”いのち”の行くへに関しては関心は無いのか。全てのものは破壊されていく有限の命を生きながら、真実不動の道を求めていないのだろうか。絶対安住の浄土往生を願わないのであろうか。もしそうすれば、永遠不滅、悲・苦・悩・愁を超えた“いのち”が得られるであろうに。人は一体何をこの世に期待し、どういう楽しみを求めているのか。まことに悲しいことであると。
蓮如上人も、
「明日さへ分からぬ、どころか、一歩踏み出した足元さえ分からぬ、無明の人生。物事が、他との関係や比較の上に成り立つ娑婆、
『人間のはかなきことは、老少不定。はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の願いを聞いてくれ』」
と、叫んでおられます。朝に、通りに掲げられた黒枠の死亡広告を眺めて通った私が、夕べには他人様から眺められて行くこの身であります。
どうぞお急ぎ下さい。お急ぎ下さいませ。
読む法話「救われれるべき私であることを聞く」 (相良村 球磨組 聚教寺 恒松見照)
このお言葉は、阿弥陀如来が本願を起こされた理由は、只々この私のためであり、それを疑いなくいただけるご仏縁に出遇うことをお勧めくださっているものであります。
つまり、救われるべ きは私であったとお聞きかせていただくことこそ、浄土真宗のみ教えにおいてもっとも大切なところといわれているのです。
日頃この私は、毎日の生活に必死で、自分が楽になれることばかりを求め生きています。
そして、自分と異なる思考や価値観を苦手とし、縁があれば争いまで起こしてしまう人生です。
振り返りますと、今年2025年は「戦後80年」といわれます。
まさに、人と人が引き起こしてきた戦争は「お互いの違いを認められない心」と「自分さえよければいいとする心」、そして「自分の方が正しいと思う心」が生み出したものではなかったでしょうか。
かつて、本願寺第24代大谷光真ご門主が執筆された『愚の力』の中で、
阿弥陀如来が救うといわれるのは、私がこのままではいけないから救ってくださるのです。
私の側が「このままでいいのですよ」との姿勢であったならば、救いも何もいりません。
とご教示くださっています。
このようにお聞きしますと、私のことを常にご心配くださり、「このままにしてはおかない」とおはたらきくださる阿弥陀如来のあたたかいお心を無駄にしないようにしたいと思わずにはおられません。
み仏と共に生きておられた念仏者の方々を見習いたいものであります。
読む法話「変わらない仏様」 (熊本市 緑陽組 雲晴寺 甲斐陽瑞)
昨今の世界情勢に目を向けてみますと、グローバル化や多様性が重視されるようになってきているようです。ここ熊本においてもTSMCの工場が出来たのをきっかけに菊陽周辺のみならず県内全体で海外から移住してこられた方が増えてきているようです。
近所の方と話をしていると、そうした海外から来られた方が地域コミュニティに与える影響を心配している声も聞こえてきます。受け入れる側からしたらそのような不安もあるでしょう。逆に移住してこられる方もちゃんと暮らしていけるのか不安を抱えられていることと思います。私達が暮らしているこの世界は絶え間なく変化し続けています。
変化し続けることを仏教の言葉でいえば諸行無常といいます。ありとあらゆるものは絶え間なく変化し続けて一瞬も同じ時がないのです。私自身のこの肉体も絶え間なく変わり続けているし、私を取り巻く環境も同じく変化し続けているのです。変わり続けるというのは落ち着かず不安なものです。今どんなに健康で元気な人であっても明日も変わらず元気でいる保障はどこにも無いのです。
サラリーマン川柳にこんな句がありました。
「集まれば 昔恋バナ 今健康」
年齢を重ねていくと健康に関する話題が増えてきます。どんなにいつまでも健康でいたいと思っていても、何事も無く健康で生涯を過ごされる方というのはそうそうおられないんじゃないでしょうか。
ほかにも、
「定年が 伸びる期待と 増す不安」
こんな句を詠まれてる方もありました。
以前は60歳が定年で後は年金でゆったりと暮らすことが出来たようですが、今は定年を過ぎても何かしらの仕事をしていないと生活に不安がある時代になってしまいました。
私達が暮らすこの世界というのは健康であったりお金の不安であったりと変わり続けるがゆえに様々な苦しみに遭っていかねばならない世界であったんです。
そうやって変わり続ける私たちの世界とは反対に永遠に変わることが無いのが仏様の世界なんです。仏教における真理とは、世界のありのままの姿の事をいいます。
すべてのものは他のものと関わりあって存在しているという縁起。
すべてのものが常に変化するという諸行無常。
すべてのものは実体を持たないという諸法無我。
お釈迦様が悟られたこれらの真理は、お釈迦様が作り出されたものではありません。この真理はお釈迦様が誕生される前から存在し、お釈迦様が亡くなられた後も存在し続けているものなんです。
この変わることの無いありのままの世界から私たちに向けてはたらいてくださるのが阿弥陀仏という仏様なのだと、親鸞聖人はお示しくださいました。
さらに親鸞聖人は御和讃のなかに
「久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏 五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあはれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ 迦耶城(がやじょう)には応現する」
とお詠みになっています。親鸞聖人は永遠の仏様である阿弥陀仏が、私たちを救うためにお釈迦様となって私たちの世界に出てくださったのだと詠まれているのです。
阿弥陀仏の本当のお姿は変わることの無い永遠の真理そのものなので、私たちには見ることも出来ない仏様です。そのために様々なお姿をお取りになって私のためにはたらいていてくださいます。お釈迦様としてこの世に出てくださったお姿やお寺の本堂やお仏壇に安置されているお木像や名号のお掛け軸。これらはすべて私がわかるようにお姿をあらわしてくださった阿弥陀仏のお姿なんです。
様々なお姿をお取りになるとはいいますがその本質は決して変わることはありません。いつまでも変わらずに私を願い続け、私のためにはたらき続けていてくださるのが阿弥陀仏という変わることの無い仏様であったんです。
変わり続ける中に苦しんでいる私の姿をお見抜きになって、変わることの無い阿弥陀仏という仏様になって私のためにはたらき続けていて下さったんです。
変わるということは悪い事ばかりではなく状況が好転するかもしれないという希望もありますが、どうなるのかわからないという不安は付きまといます。だからこそ私を案じてくださる阿弥陀仏が共にこの命歩んでいてくださったんです。変わり続けるこの世界を変わることの無い阿弥陀仏とご一緒に一歩一歩、歩んでいくお念仏申す日暮を送らせていただきたいと思うことであります。
南無阿弥陀仏
読む法話「またがんそ」 (芦北町 芦北組 覺應寺 葦原顕信)
以前宮崎県都城市のお寺の法務員をしていたときのことです。初めて住む土地。道がわからないのはもちろん、話しかけられる言葉も最初の頃は全然理解できず戸惑ったものでした。都城市を含む地域で使われる言葉は「諸県弁(もろかたべん)」と呼ばれ、とても特殊な表現が多くあります。この諸県弁がフランス語に聞こえることを利用したPR動画を小林市が作っているくらいです。ですから世間話一つ理解できない私に、その都度ご門徒さんが様々な言葉を教えてくださいました。
その中で特に印象深いのが、「めあげんそ」と「またがんそ」という言葉です。「めあげんそ」は人の家を訪ねるときに言います。「めあげんそ」とは「みあげもそ」とも言い、「お土産持ってきましたよ」を短くした言葉だそうです。そして今度は帰る時、別れるときに言うのが「またがんそ」です。「また会いましょう」という意味だそうです。
この言葉を教えてもらったとき、良い言葉だなぁと思いました。では、なぜ「さよなら」ではなく、「また会いましょう」と言うのでしょう?これでお別れだと思っているなら出てこない言葉です。
ということは、たとえ今別れることになっても、また会う場所がある、また会う時間がある、そしてまた会いたいと願っている。だからこそ「またがんそ」という表現がうまれたのではないでしょうか。
『仏説阿弥陀経』というお経さまに、
舎利弗(しゃりほつ)、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑは
いかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。
(現代語訳)
舎利弗よ、 このようなありさまを聞いたなら、 ぜひともその国に生れたいと願うがよい。そのわ
けは、 これらのすぐれた聖者たちと、 ともに同じところに集うことができるからである。
というお言葉がありますが、これはつまり、「お浄土でまた会いましょう」ということであります。
阿弥陀様の願いに出遇うものはみな、お浄土でまた会う世界を恵まれるのです。
そして、その阿弥陀様の願いは「南無阿弥陀仏」と我が声となってくださっているのですから、「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えするところには、このいのち終えたときただ別れていくのではなく「また会いましょう」と言える世界が広がっていくのです。
せっかく「またがんそ」と言える人生、思い出やおみのりをひとつでも多くお土産に持たせてもらいながら、一日一日を送りたいものです。