法話集
「お通夜の法話」(浄行寺 盛 忍)
「お通夜」と申しますのは、夜を通して、最後の看取り、看病をさせていただく場であります。また別の言い方をしますと、「夜伽(よとぎ)」と申します。「伽(とぎ)」とは、「お伽話(おとぎばなし)」のことであります。子供に寝物語をして、その相手をしたり…つまり、語り相手をし、看病することなんです。息をされてるわけではないけれど、まだ生きておられるお姿を装うのであります。
最後の別れに会えなかった親しき方々が大急ぎで駆けつけて、一夜最後の看病、最後のお看取りをさせてもらうひと時なのです。ただ涙にかきくれる方もありましょう。
宮城 顗(みやぎ・しずか)という先生が、「人を失った悲しみの深さは、生前にその人からわが身が受けていた贈りものの大きさであった」という言葉を遺しておられます。
喜びも悲しみも共にして、この厳しい人生を手をとり合って暮らしてきた、はげまし合って生きてきた人、また私をこの人間の世界へ送り出してくれた父や母。ここまで育ててくれた両親との別離。あるいは、幼子との別離の人もあり、深い悲しみと嘆きを心に味わわずにはおれないこの世の現実があります。
その時、これほど大きな悲しみが私をおおってしまうのは、平素は気づかなかったけれど、その人がいてくれることで大きな支えや生き甲斐などをこの私がいただき続けてきたからだと気づかされます。つながりの中に自分というものを与えられて生きているのが私でありますなら、大切な人の死は、それまで向き合ったこともない自分自身の「いのち」の事実でもあったと知らされます。
それじゃ時間決めてお通夜のお勤めするのは何かと言いますと、あれは「お夕事(おゆうじ)」夕方のお勤めなんです。ご本人はお勤め出来ませんから、皆が代わりにご一緒させていただいているのでありまして、亡き人にお経あげるんじゃないんです。
辛く悲しい現実ではありますが、あなたの後ろ姿を無駄にはいたしません。私自身の人生に深いお育てをいただきましたと手を合わせ、お念仏申します。
今夜のお通夜をご縁として、お参りくださいました皆さんと共に仏縁を結ばせていただくひと時でありたいと願うばかりであります。
「仏事のこころ」 (願行寺 鹿本地上師)
私のいのちは 私一人のものでなくお父さんお母さんのものです
そして お父さんお母さんのものだけでなく
それぞれの おじいちゃん おばあちゃんのものです
それは また
ひいおじいちゃん ひいおばあちゃんのもので
もちろん ひいひいおじいちゃん ひいひいおばあちゃんのものでもあります
粗末になんか できますか
不幸になんて なれますか
いのちの根は いま 私に託されているのです
これは、中日新聞に載っていた「いのちの根」という八木春美さんというお方の詩です。
私のいのちの背後には無量のいのちがあります。亡き人を偲びつつ心静かに合掌するとき、いのちの深さ、広さに思いをいたすことができます。
すべての生き物は例外なくいのち終わりますが、我々の平生は死ぬことなど忘れて、より豊かに、より有意義にと願って生活しています。それだけに身近な人の 命終は、家族の愛、医療努力など、人知のすべてが何一つ間に合わなかったことを知らされ、生かされて生きることを噛みしめる、かけがえのないご縁です。
亡き人を偲ぶ心は、楽しかったこと、充分してやれなかったこと、言わなければよかったこと、叱られたこと、悲喜こもごもですが、「亡き人を思う心は、亡き 人に思われている証拠でもある」ともいわれます。浄土真宗の仏事は、すべて、ご恩報謝の営みであり、私を教え導くためのものであることを心したいもので す。
我々は一回限りのこの人生を、悔いなく生きているのでしょうか。
亡き人を敬い仏事を行うのは、仏事には、無常を忘れて暮らしている私をして、人生の厳格な事実に目を覚ませるはたらきがあるからです。
このたびの仏事に「南無阿弥陀仏」と念仏申して、亡き人から呼びかけられている、共なるいのち、永遠なるいのちに目覚めて、ひと時ひと時を、大切に過ごしたいものです。
「与えられたいのち」(善正寺 禿興宇師)
みなさんは何度も読み返したくなるような文章がありますか?私は親鸞聖人のみ教えを学ばせていただくとき、ふと読み返したくなる文章がありま す。それは、龍谷大学宗教部が1978年5月21日に創刊し、無料で配布している『りゅうこくブックス』に書かれてある「発刊にあたって」という二葉憲香 元龍谷大学学長の文章です。ここに紹介させていただきます。
「新緑の中に立って、われわれは、自然の新鮮ないとなみに目をみはる。一本の木、一 本の草、それぞれ違った新芽を出すが、それは、それぞれが考えてのことではない。緑の葉も、それに対応する光も与えられたものである。そのいとなみのなか に、われわれを振り返ってみると、同じように与えられた生命の中で、同じように真実をもとめる心を与えられていることを発見する。われを超えるはたらきの 根拠に立って、自己のありようを考える。そこに宗教の門があり、親鸞探求の出発点がある」という文章です。
私たちを包むすべてが、われを超える はたらきである阿弥陀さまに与えられた命であります。生きとし生けるものすべてが阿弥陀さまのはたらきによって生かされ、救われるのです。私たちは自分の ことは自分で何でもできると思ってしまいがちでありますが、自分の髪の毛や指の爪などは自分の意思に関係なく勝手に生えてきます。年をとって老いたくない と思っても老いていかねばなりません。自分の意思など及ばない、われを超えるはたらきである阿弥陀さまに与えられ、生かされ、救われていく命なのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申し、阿弥陀さまにおまかせして日々を精一杯生かさせていただきましょう。
「救いの専門家」(観乗寺 藤枝法弘師)
「餅は餅屋」という諺があります。餅は餅屋でついてもらったものが美味しいように、ものごとはその道の専門家にまかせるのがいい、という意味です。ある方が、理髪店へ散髪に行かれたときの話です。耳の周りをカットしてもらう際に、「こうすればご主人もやりやすいだろう」とカットする側をご主人へ向けるために首を動かしました。反対側をカットしてもらう際も同じように首を動かしました。
ところが、ご主人が言うには、「やりにくいから首を動かさずにじっとしといてくれ。」とのことでした。お客さんとしてはご主人がやりやすいように、よかれ と思って首を動かしました。ところが、はさみや剃刀などの刃物を持ってカットするご主人にとっては、お客さんに動かれると逆に刃物で傷つけかねないという ことで、やりにくかったのでしょう。
理容師さんや美容師さんは、髪を切る専門家です。その作業中によかれと思って、切られる側のこちらが首を動かしても妨げでしかありません。
阿弥陀さまは「私にまかせよ、必ずお前を救うぞ。だから私の名を呼んでくれ。」とおっしゃっています。私を救うために五劫の間思惟し、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間をかけて修行され、今まさにはたらきかけてくださっているお方です。
仰せのままにおまかせし、お念仏申させていただくだけであります。私から「こうすれば救われるだろう」とあれこれ詮索する必要はありません。阿弥陀さまはいわば救いの専門家なのです。
阿弥陀さまの前では凡夫のはからいは無用だということに改めて気づかせていただいたことです。