法話集

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読む法話 「この私がお念仏をお称えするということ」 (熊本市 眞法寺 眞壁法城)

2021/04/05 18:33

 先日の令和3年3月11日、東日本大震災からちょうど10年が経ちました。テレビでは当時の映像が流れ、私も地震が発生した14時46分に追悼の鐘を撞き、当時を振り返ったことでありましたが、今月4月には熊本地震からちょうど5年が経ちます。ふと、あのときの私はどんなことを考えていたのだろうと思い、当時の資料を探したところ、次の文章が見つかりました。熊本地震から一ヶ月を過ぎた頃に私のお寺からご門徒の方々にお配りしたお便りです(一部加筆修正してあります)。 

 地震から一月以上が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 今回の被災生活についてお尋ねすると、「水のありがたさをしみじみ感じました」というような声が一番多く聞かれます。たしかに私もそうでありました。
 熊本市は地下水に恵まれていますから、私は生まれてからこれまで水不足を感じたことは正直ありませんでした。しかし今回、蛇口をひねれば水が出てくることが当たり前だった生活から、地震のため蛇口をひねっても水が出ない、そのような生活への変化を余儀なくされました。しばらくして水道が復旧し再び水が出るようになったのですが、そのとき、それまで出て当たり前であった水は、有り難い水へと変わっていました。
 水が出ることは当たり前なのか、それとも有り難いことなのかという感覚の違いは、自力の念仏と他力の念仏の違いに通じる部分があります。
 つまり、この私がお念仏をお称えするのは、あくまで私の意思に基づく私の行為と解釈するのか、それとも、この私をお念仏をお称えする人間へと育てあげようとする阿弥陀さまの願いでありおはたらきであると解釈するのかという違いに似ているのです。
 お念仏をお称えするのは私の行為なのか、それとも阿弥陀さまのおはたらきなのか。この解釈の違いは、阿弥陀さまの願いがなければ、はたして私はお念仏をお称えするような人間であるのだろうかと思いを巡らすことから生じます。結論を言ってしまえば、自分の力でお念仏をお称えしていると思っている限り、阿弥陀さまのおはたらきに思いが至ることはありません。これは、先ほどの水でたとえるなら、水道の蛇口から水が出ている状態を見ても、その背後にある水源や水道管の存在に思いを巡らすことができなければ、「蛇口から水が出ているなぁ」という表面的な感想しか出てこないのと同じです。自分は自分の力でお念仏するような人間ではないというところに立てたとき、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを感じることができるのです。それは、水道の蛇口から出る水を見て、水源や水道管の存在に思いを巡らせることができるようになったときに初めて、「ここに水が出るためにはさまざまなご縁と色々な方のご苦労があったことだろうなぁ」と、その事実を深く受け止めることができるようになるのと同じであります。このように、私の姿を仏法を通して深く見つめ、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができるようになることを、「お育てをいただく」といいます。私も最初、お念仏は自分で称えているとしか理解できなかったのですが、いつのまにかお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができる身へと育てられています。思えば本当に不思議なご縁です。

 地震から5年が経ち、私のお寺の近所で地震の痕跡を目にすることはかなり少なくなりました。目まぐるしく変化する毎日の生活の中で、私の場合、当時の記憶を思い返す時間もだんだん少なくなってきています。しかし、熊本の状況が、私の状況が、どのように変わろうとも、阿弥陀さまの願いは全く変わることがありません。常にこの私にはたらき続けてくださっています。そしてこの私は、阿弥陀さまの願いが届いていなければお念仏をお称えするような人間ではないことにもやはり変わりはありません。
 約一年前から世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、私は今も変わらずにお念仏をお称えさせていただいております。阿弥陀さまのおはたらきの真っただ中で。