法話集・寺院向け案内
読む法話 「回向を首としたまひて」(益城町 益北組 壽徳寺 河邉梨奈)
保護者同士のお付き合い、いわゆるママ友さんとのお喋りの中で、思いがけずおみのりに遇わせていただいたことがあります。
ママ友Aさんの娘さんが大学に通いながら一人暮らしをされていたころ、一本の電話がAさんにかかって来たそうです。
「ママ、助けて」
泣いている娘さんによると、悪徳な業者に高額の支払いを強いられたとのこと。路上でエステティックサロンのキャッチに声をかけられ、お試しキャンペーン中だからと言葉巧みに店内へ誘い込まれたのだそうです。
あれよあれよという間に大勢の店員に囲まれ、威圧的な口調で圧力をかけられ、あまりの恐怖に逃げ出すことも出来ず、高額なコースを契約させられたのでした。
泣き寝入りしたものの、いたたまれなくなって母親に顛末を打ち明けたのでしょう。
ごめんなさいと泣きじゃくる娘さんを助けてやりたかったけれど、時間が経ちすぎており、返金はかなわなかったとのことでした。
この後のAさんの言葉に私は興味をそそられたのです。
「あれから、私の所へ詐欺の電話の一本でもかかって来ないかなぁ、と手ぐすね引いて待っているんだけどね。全然かかってこないのよね」
かかって来てほしい、というのです。
何故!?と問うた私にAさんは
「娘を酷い目に遭わせた業者に直接仕返し出来ないのは分かっているけれど、それでもやっつけてやりたい。仇を討ってやりたいの。」
仕返し、仇討ち、やっつけるなど、次々飛び出す迫力のありすぎる言葉の数々。しかし、そんなAさんの心の底をよくよく覗いてみれば、それは間違いなく我が子への愛情から発せられた言葉でした。
この私は、愛する=優しく明るい感情、憎む=怖い暗い感情、と分類したがる癖を持っています。しかし喜怒哀楽と名づけられる様々な感情は、実際には独立した四つに明確に分けられるものではありません。
何かの感情が表に出る時、他の感情もまた複雑に絡み合い、必ず芋づるのように繋がって出てくるのです。
「この子が可愛くて哀れでたまらないから、あいつをやっつけてやる。」
これほど相反する感情の動きに対し、何の疑問も持たずに、むしろ共感さえして生きていくのがこの私です。
このように自分の心でありながら制御が不能で、感情の波に翻弄され続け、自らの力でさとりに至ることができないような私を、苦悩の有情と見抜かれた阿弥陀仏は、この私ひとりを見捨てず救うはたらきを完成されました。
『如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり』(正像末和讃)
自覚することも改めることも期待出来ない私のために、己の全てを注ぎ込む(回向)のを第一(首)として下さったのです。
私の口から出るはずのなかったお念仏が、たとえ棘のある声や涙声であっても聞こえてくるならば、そして日常の暮らしの中の、ふとした瞬間におみのりに遇わせていただくならば、それは阿弥陀仏のおはたらきの姿なのです。
8/28 全寺院向けご案内
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・【教区】千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要について(参拝募集)
・【教区】平和の鐘について
・【別院】秋季彼岸会・総永代経法要のご案内
8/19 全寺院向けご案内
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・【教区】『熊本教区報』第203号発送について
・【別院】帰敬式実施についてのご案内
・【宗派】第46回千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要並びに「平和の鐘」について
8/19 全寺院向けご案内(R8熊本地震関連)
・「浄土真宗本願寺派 令和8年熊本地震支援センター」設置期間延長について
※令和8年熊本地震に関連した発信書類はこちらから閲覧できます。
8/5 全寺院向けご案内(R8熊本地震関連)
読む法話 「ご恩に包まれて」(湯前町 球磨組 明導寺 藤岡教顕)
熊本県南部を襲った「令和二年七月豪雨」から、7月4日で6年目を迎え、本願寺人吉別院にて七回忌法要をお勤め致しました。まだまだ完全復興とは言えず、河川・山林・鉄道など復旧工事が継続して行われています。発災後、検証が続けられた中で、猛烈な豪雨により河川の氾濫は「川の津波」とも言われ、県内で67名の方の大切ないのちが奪われ、いまだに2名の方が行方不明。現在も仮設住宅で過ごされている状況を見るとき、完全復興への道のりは長く険しいものであると感じています。
さて、私たちは6年前の豪雨被害による辛く苦しい経験だけではなく、人間関係で悩み苦しんだこと、大切な方がいのちを終えていかれたことなど辛かった経験を引きずり、「なぜ、こんな目に遭わないといけないの」と過去を悔んだり、「あのとき、こうしておけばよかった」と後悔の念に駆られることも多いのかもしれません。
感情論に振り回されること無く、冷静にこの思考回路を辿ってみると、「過去」というものが、どこかにあるわけではなく、「過去」という「記憶」を辿りながら、自分自身で「悪い出来事」「辛かった思い出」と判断し、心に刻んでいるのです。
私たちの人生には、誰もが絶望の淵を彷徨うような本当につらい過去が存在します。起きてしまったその事実は、決して変えることができません。しかし、その事実ををどう受け止めるかによって、その事実の意味が変わってゆくのです。
振り返ってみれば、発災直後から本当に多くの方々の支えがありましたが、その中でも、過去に被災経験のある方々から数多くのご支援をいただきました。
「私たちも被災しましたが、本当に多くの方々のご支援によって復興することができました。今回は、その『恩送り』です。少しでもお役に立てたら幸いです。」
ご自身が被災された経験を軸として、長く読みづらい文章ではなく、右記の簡潔で力強いお手紙を添えて送り届けてくださった支援物資。リアルタイムで必要としている物を分別しやすいように梱包されていた細やかな配慮が本当に有難かったことを記憶しています。
世間では「恩返し」ということばが主流となっており、スポーツでの勝利者インタビューでも「今日の優勝が親への恩返しになったと思います」というフレーズを聞きますが、いただいたご恩をすべて返すことは決して出来ることではありません。
「恩」の原語であるパーリ語の「カタンニュー」は、「なされたことを知る」という意味であり、以下の3つの特徴があると味わっています。
・こちらから求めて与えられたものではなく、こちらが求めるより先に届けられている
・小さい恩には気づけるが、その恩が大きくなればなるほど気づけない
・「恩返し」とよく言われるが、決して返しきれるものではない
以前、梅雨時期の明導寺掲示板に
「雨の日の傘の有難さはわかるけど、屋根のご恩は大きすぎてわからない」
という言葉を掲示したことがありました。
雨の多い時期には傘の存在は大変有難く、雨降る道中も傘があれば凌ぐことができますが、自宅に到着すると、そこには屋根が存在することから、当然のように傘をたたみます。ここで本来ならば、感謝の思いが「傘」から「屋根」へとシフトすべきところですが、「雨が降り出したけれど、傘があってよかった」という声はよく聞きますが、「雨が降っているけれど、家に屋根があってよかった」とは言い難い現状があります。「傘」と「屋根」の双方とも、雨で濡れることを防いでくれているのに何故でしょうか?
「傘」には感謝の念を抱いても、「屋根」にその思いが湧いてこないのは、その「ご恩」があまりにも大きくて、当たり前だと捉えてしまっているのです。
常におぼつかない足取りの自分自身を振り返ってみると、大きい「屋根」のような数々の「ご恩」に支えられ生かされているよにもかかわらず、身近で分かりやすいはずの「傘」にさえも感謝の念を抱いていない現状があります。
そのような私にも、「屋根」とは比較にもならない阿弥陀さまの無限のはたらきが求めるより先に届けられ、包まれ育まれながら、お慈悲の中で生かされているのです。
日々の暮らしの中で、様々な「ご恩」に支えられ生かされている事実を受け止め、私自身を根本から支えてくださる阿弥陀さまのおはたらきに感謝しながら、このたびの豪雨被害をご縁として、全国の皆様方から頂いた有難きご支援を「恩送り」として広げて参りたいと思います。
「令和二年七月豪雨」の出来事は、本当に辛く苦しい過去であることには変わりませんが、いかなる状況にあろうとも寄り添い続けてくださる阿弥陀さまの温もりを頂くとき、「辛かっただけの過去」が「意味ある過去」へと転換されてゆくのです。
※この原稿は、7月28日に発災した「令和8年熊本地震」以前に執筆されました。センシティブな内容を含みますが、そのまま掲載させていただきます。この度の地震により被害に遭われたすべての皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
