法話集

法話集

読む法話「無常の世に生きる」 (美里町 益南組 善宗寺 山﨑魁之)

2024/07/01 09:00
 2022年11月に叔母がこの世の縁尽き、浄土へ参りました。五十四歳でした。
  叔母は私の父の妹であり、私が日ごろ生活を営んでいる善宗寺で生まれ育ちました。 当然のように、私よりは父の年齢に近いので、私が物ごころがつくようになった時には、親であり、我が家に訪れる時にも従妹の「親」 という側面の方が私から見たときには大きかったように思います。
 ところが、叔母が一人で訪れる時には同じ叔母でも、従妹の「親」ではなく、私の祖父祖母に対しての「子」 としての側面が大きく見えるのです。
 これには、祖父祖母が健在かつ自宅で生活しているからという理由があるでしょう。 善宗寺の付近には特にこれといった面白いものはなく、何十年か前と周辺もそこまで大きな変化はしていません。 しかし、叔母にとってはこの、特に大きな変化をせず面白味のない場が、昔と変わらずに自分を「子」 として迎え入れてくれるかけがえのない場だったのです。
 しっかり者であれば「親」としての責任感が強く、大変に思う時もあるでしょうし、その他の肩書や役割を担うこともあります。その中で人間関係での悩みも当然のように出てきます。
 祖父母の前では叔母はそれらのしがらみをしばらく横に置き、純粋に「子」であることが出来るのです。 もちろん直面している事態に対しての悩みを話す事もありますが、それはやはり「親」を前に「子」に戻るという事を通して行われるのです。
 叔母は、祖父母が体調を崩した時には見舞いに来てくれていました。 祖父母が体調を崩し 「あと何か月ほど生きていられるだろうか」 と、気弱になる度に叔母は見舞いに来て励ましてくれていました。
 蓮如上人の『御文章』白骨章には、

「されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏とふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

とあります。
 儚いこの世に生きる私たちは老いた人と若い人、どちらが先に命を終えていくかは生まれた順番の通りではなく定まっていないことです。
 年老いた祖父母よりも先に叔母が命を終えていくそのすがたに老少不定の理を痛感しました。
 今年、2024年で当善宗寺の本堂は再建から二百周年を迎えました。 熊本地震の影響で柱の傾きが大きくなり倒壊の危険性が高まる中、現時点では本堂としての形をとどめています。同じ境内地にあった鐘楼は傾きがあまりにも大きくなっていた為に倒壊前に解体し撤去する決断を下しました。
 この無常の世の中で形あるものがそのままでいる事の困難さを思う時があります。その中でお寺の本堂がどのような場を提供できているだろうかと考える時があります。
 最近、コロナ禍で中止していた法要・行事を通年で行う事ができるようになってきました。
 先日の春彼岸会法要後に御門徒を見送っていると、呟くようにこう仰いました。
「故郷に帰ったようでした。」
 この言葉を聞いて私は非常に嬉しく思いました。 時代の変化に合わせ寺院には様々な変化が求められていると思います。 その中で今後とも変わらずに、お寺の本堂が合掌する中に「故郷に帰ったよう」で、「子」に戻ることが出来る場所であって欲しいと思います。

読む法話「救いを告げるお方」 (菊池市 菊池組 照嚴寺 髙田聡信)

2024/06/01 09:00

 阿弥陀という仏さまは、私たちに教えを告げられません。また教えを告げて私を育てるというお方でもありません。なぜならば、教えを告げたところでとらわれから一歩も離れることはできずに、煩悩を燃やし続けることしかできない私のことをよくよくご存じであったからです。教え育てようとしても、育てることができない私の状況をよくよくご存じであったからです。唯一つ救いを告げられるのでした。いつでもどこでも、この私を必ず救うと聞かせてくださるのが阿弥陀さまのお慈悲です。

 お寺によくおまいりになられる女性の方がいらっしゃいます。重い病気を患われまして、その入院中に出逢った看護師さんのことを私に話してくださったことがありました。

   大手術の後の傷口を毎日消毒してくださいました。そのとき看護師さんは一度も「痛いですか」と尋ねたことがあ
  りませんでした。いつも消毒しながらかけてくださる言葉は「痛いですね」「痛いですね」でした。この看護師さん
  の言葉に、私は思わず涙が止まらなかったのです。日頃から親戚やお友達、そして家族からも「大丈夫だから」「よ
  くなるから」と励まされていました。みんなが親身になって心配してくれているのをヒシヒシと感じたからこそ、そ
  の心がとてもうれしかったのです。そしてそれが私の大きな力になりました。でも、本音は怖かったんです。辛かっ
  たんです。逃げたかったんです。誰かにその本音を聞いてほしいと思ったけれど、誰にも言えませんでした。なぜな
  らみんな私を熱心に応援してくれていたからです。みんなの期待を裏切るようなことはしたくない、心配かけさせた
  くないと思ったからいつのまにか自分の本音を言えなくなっていました。その心の中に隠し張りつめていたものを寄
  り添い解きほぐすような言葉が「痛いですね」でした。その言葉に出逢った時に、思わず私は隠していた心の涙を隠
  すことができませんでした。

というお話でした。

 阿弥陀さまは、私の苦しみ悲しみをすでに知っているといつもご一緒してくださいます。そしてただご一緒してくださるだけではなく、あらゆる功徳を私に振り向けて根こそぎ救うと願いはたらいてくださるというのが阿弥陀という仏さまです。

 お念仏の生活は仏さまの確かな救いをよろこばせていただく日々であります。殺伐としていのちの触れ合いが少なくなってきている昨今、私だけでなく孤独感に襲われがちなすべての方々が、仏さまの温かい眼差しといのちの有り難さに触れてくださればと思います。

読む法話「本当の安心」 (西原村 益北組 慈雲寺 工藤恭修)

2024/05/01 09:00

 皆さんは普段生活をしている中で、何に安心を求めているでしょうか。こんな質
問をした時、「安定した生活に安心を感じる」と友人は答えてくれました。

 さて、皆さんはどうですか。安定した生活とは何を持って言えるでしょうか。金銭的な余裕、健康的な体、名声や地位でしょうか。確かにこれらがあれば、この人生は安心かもしれません。

 しかし、それを手にしたとしても、一瞬でその手から離れていくものでもあります。その事も理解しているからこそ、手から離れていく不安の中で生活をしなければならない、本当の安心とは言えないでしょう。

 浄土真宗という教えは、南無阿弥陀仏のお念仏をこの人生の本当の拠り所、支えがあきらかになる教えです。

 福岡でサラリーマンとして働いていた時の事。朝早くに仕事に向かい夜遅くに帰ってくる生活。そんな仕事ばかりの毎日で心身共に疲弊しきっていました。

 久々の休みを取り、地元である西原村に帰り近くを散歩していた時の事、梅の花の香りにつられふと上を見上げると、そこには咲き誇った紅梅と青く広がった空が目に飛び込んできました。

 仕事に追われ空なんて見る余裕などなかった事にハッと気付かされました。考えてみると子供の時はよく見上げていた空も、歳を重ねるにつれ目の前の物事をこなすうちにいつしか見る事さえしなくなっている。

 見上げた空は昔と見た空と変わらない青く澄んだ世界でした。昔を思い出すと、共に変わらない空に私はなんとも言えない安心を感じました。

 紅梅から様々な花に咲きうつろいゆく様に、私たちが生きている世界も常に移り変わりゆきます。心が追いつかない様な変化もある世界でもある。

 だからこそ「変わりゆく私、変わりゆく世界に生きているからこそ変わらないものが安心を与える」のでしょう。

 「どんなあなたであっても、どの様な生き方をしていようとも大丈夫、見捨てはしない。だからこの南無阿弥陀仏の道を生き抜いておいで」

 忙しなく動き変わり続け喜怒哀楽を繰り返す私たちを決して変わる事なく常に優しく包み込んで下さる仏がいらっしゃいます。その仏を阿弥陀仏と聞かせていただきます。

 決して変わらない安心を支えとし、このいのちを生き抜いて往くのです。

読む法話「心配するな」 (芦北町 芦北組 覚応寺 葦原理江)

2024/04/01 09:00

 去年の11月15日は父の七回忌でした。8年前、膵臓がんと診断された父は、1年4ヶ月の間、抗がん剤治療を受けながら自宅で過ごしていました。その時、父は、部屋の前を通る家族を呼び止めては、それぞれにいろんな話しをしてくれていました。
 去年7月に、家族だけでの父の七回忌法要を勤めたとき、住職である弟が、法話でその時の話をしてくれました。
 
ある日、父は弟を呼び止めて、このように言ったそうです。
 
「おい、窓の外ば見てみろ。あそこに赤い実がたくさんなっとる木があるやろ。さっきから小さい鳥が、その実を食べようとして飛んで来るけど、すぐにはその木に止まらん。少し離れた木に止まって、キョロキョロと怯えながら辺りを見渡しよる。それを繰り返してようやっとその木に止まっても、まだ警戒して、キョロキョロしながら赤い実を食べて、慌てて飛んで行きよる。
 あの怯えながら生きる姿こそ、阿弥陀さまが願わずにはおられなかった、私たちの姿そのものなんだよ。
 『大経(仏説無量寿経)』に「一切恐懼 為作大安(いっさいくく いさだいあん)」とある。その「懼(く)」という字の「忄(りっしんべん)」は「心」を表し、右下の「隹(ふるとり)」は尾っぽの短いずんぐりした鳥を表しとる。右上の2つ並んだ「目」の字は、その鳥が怯えながらキョロキョロとする様を表しとる。
 「
一切の恐懼に、ために大安を作さん。」生死の苦しみに常に怯えて、安心して生きることの出来ない全てのいのちに、阿弥陀さまは、この上ない安らぎを、与えてくださってあるんだよ」と。
 病いの中にあった父が、阿弥陀さまの大いなるお慈悲のうちにあったことを感じ、涙とお念仏が溢れてきました。
 そして、そのお念仏の中に「心配するな」と呼びかけ、今ここ私に、まことの安心を与えてくださる阿弥陀さまの、あたたかいお慈悲に包まれた、七回忌法要でありました。

読む法話「独りぼっちではない命」 (熊本市 熊本組 善教寺 西守騎世将)

2024/03/01 09:00

 令和六年の元日、新しい年を迎えられた祝福の雰囲気溢れる中、能登半島で震度7の大きな地震が起こりました。
 この地震にて被災された皆様に心からお見舞い申し上げますと共に、一日も早く復興され元の穏やかな生活に戻られますことを心から念願しております。
 現在宗派では石川県金沢市の金沢別院において浄土真宗本願寺派・能登半島地震支援センターを設置し、物資や災害支援ボランティアの受け入れを行っております。詳しくは、浄土真宗本願寺派金沢別院のホームページまたは特設ページをご確認下さい。https://jovial-notosien11.wordpress.com

 さて、実は私のお寺も平成二十八年熊本地震において、本堂、住居の庫裡(くり)とも全壊しております。
 このお寺は私の妻の実家で、当時は83歳になる妻の叔母が住職として一人でお寺を守ってきたのですが、この地震の影響で持病がいっきに進行し、そのまま入院、即住職引退となってしまいました。
 
妻は四人姉妹の長女ですが、両親は既に二人ともお浄土に参られており、姉妹も全員外に嫁いでおりますので誰も後を継げる者はおりません。
 でもお寺は崩れたまま。
 
再建どころか後継者すらいない。
 そんな中、「自分がやる!」と私は自然と手を挙げておりました。
 
崩れてしまったお寺を見て、私はどうしても放っておけなかった、と言うのが率直な気持ちでした。
 
私は元々会社を経営しております。
 若い時に自分で創業し、長く経営者として人生を歩んできましたので、どうしても考え方の基準や思考が「自分」になりがちです。
 
そして年を重ねる毎にこの考え方はどんどん強くなっていきます。
 
従って「自分一人の力で生きている。誰にも頼らず生きている。ここまで来られたのは自分の力、自分の努力。誰にも頼らず、誰にも迷惑など掛けていない」…今思えば恥ずかしい限りですが、ただ自分が導いた結果だけにしか思いが巡らない、至らない考えしか持てない私でしたから、「なぜそうなったのか?」という「因」はあまり考えず、目の前の「果」だけを見て判断するので、結局そこにいろいろな迷いや苦が生じ、不安や思い通りにならない困難を抱え続け、いつも孤独で独りぼっち…そんな命を生きて来たのです。

 私たちがいつも頂いておりますお念仏。
 そのお念仏でありますが、単に「わたしがお念仏する」というわたし自身が導いた「果」ではなく、迷い苦しむ衆生を救おうと願い立たれた阿弥陀さまの願いが、「因」となって今わたしに直接届いているからこそのお念仏なのだと言うことを知りました。
 
有り難く尊い願いと功徳が南無阿弥陀仏となって今まさにわたしを支えて下さっているからこそ手が合わさり、お念仏を申している、ということを思い見ることは大切です。
 
そして、そもそもなぜ阿弥陀さまは衆生を救おうと願われたのか、という「因」について考えることは、最も重要なんです。
 
これを親鸞聖人は正像末和讃にて次のようにお示しになられました。

  
如来の作願をたづぬれば
  
苦悩の有情をすてずして
  
回向を首としたまひて
  
大悲心をば成就せり(註釈版聖典六〇六頁)

 「阿弥陀さまは生きとし生ける、全ての命を救う願いを起こされましたが、そのお心をお尋ねすると、それは苦悩しながら生きるわたしを決して見捨てないためでした。そして長く大変な修行の功徳の全てをわたしに回し向けることを第一として、わたしの苦悩の解決をするための誓願を成就して下さいました」という、み教えです。
 
自力という自らの力でさとりに至ることもできず、放っておけば何をするかわからない。
 
危なっかしく、且つとても弱く、苦しみ迷いながら生きるのが、わたしです。
 
それでありながら、自分一人の力で生きている、誰にも頼らず生きている、ここまで来られたのは我が力なのだ、と勘違いしているわたしでもあります。
 そんな危なっかしく、脆く、弱いわたしだからこそ、阿弥陀さまはどうしても放っておけず、とてつもなく長く大変な修行をされ、その功徳を全部わたしに振り向けて今まさに救って下さっているのです。
 
阿弥陀さまにとって、こんなわたしでもまさに我が子同然。
 
命の親さまとして常にわたしを心配して下さり、お念仏となって常に私に寄り添って下さっているのでした。
 
それに気付かされるのがお念仏であり、お念仏申すことで阿弥陀さまの功徳がわたしを包んで下さっていることに気付くのです。
 
決して孤独ではない、独りぼっちの命ではない。
 
そうお聞かせ頂くことが「念仏の衆生」としてお育て頂くことなのだと思います。

 その後、私はすぐに得度して僧侶となり、お寺の住職を継がせて頂きました。
 時間は掛かりましたが、やっとお寺の再建も始まりました。
 
各地で発生する災害によって、寺院や住宅が私のお寺のように全壊する悲しい出来事が起こっています。
 
「どうしようか…」と途方に暮れる気持ちは私もよくわかります。
 
でも焦らなくてもいいです。
 
時間が掛かってもいいじゃないですか。
 
規模が小さくたっていいじゃないですか。
 
「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と一緒に寄り添い、励まして下さる阿弥陀さまがご一緒です。
 
いつか再建を果たした暁に、「良かったね、頑張ったね。私も嬉しいよ。あなたと私で喜びを倍にして噛み締めよう」と寄り添って下さる阿弥陀さまがいつもご一緒です。
 
決して独りぼっちではないんです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

読む法話「光に照らされ」 (錦町 球磨組 報恩寺 岡田浄教)

2023/12/16 09:00
  電車の窓の外は、光にみち、喜びにみち、いきいきといきづいている。
  この世ともうお別れかと思うと、
  見なれた景色が、急に新鮮に見えてきた。
  この世が、人間も自然も、幸福にみちみちている。
  だのに私は死なねばならぬ、だのにこの世は実に幸せそうだ。
  それが私の心を悲しませないで、
  かえって私の悲しみを慰めてくれる。
  私の胸に感動があふれ、胸がつまって涙が出そうになる。

 この詩は小説家、詩人として著名な高見順さん(1907~1965)が癌になり、まもなく死ぬであろうことを自覚していた時に書いた詩「電車の窓の外は」の一部です。

 高見順さんが「死」の問題に直面したとき世界は光り輝き、死にゆく自分に対してどこまでも優しく受け取られたのでしょう。高見順さんがどのような信仰を持ち、どのような人生を送ってこられたのかは分かりませんが、今まで何気なく見えていた普段の景色がそのように見えたのは、とてつもない驚きだったと思います。高見順さんがこの詩を驚きのなかに書かれたことは想像できますが、この詩を読んで私の景色の見え方が変ったかとかといえば、そういうことはありません。中々そのように見えない、思えない私が心に見えただけです。この詩を読むたび、いつのまにか生きていることが当たり前になり、世界が素晴らしいと思えなくなっている自分が見えるだけです。

 しかし私たちが普段聴聞させていただいている阿弥陀さまのお心は私の見え方が劇的に変化することを期待しておられるのでしょうか。

 むさぼり・いかり・おろかさという煩悩に骨の髄までどっぷり浸かり、どこまでも自分中心にしか周りを見ていないこの私、世界が光に満ち、どこまでも優しく見えなくても、そのような私であるがために阿弥陀如来は御本願をたて、常に私を照らし、何があろうと決して見捨てないとはたらいてくださいます。

 阿弥陀さまの光に照らされて見えてくる私の姿はどこまでいっても煩悩まみれでありますが、その私を決して見捨てないとはたらいてくださる「南無阿弥陀仏」とともに娑婆、思い通りにならないこの世界を生き抜いていくだけなのです。