法話集

法話集

読む法話「ご安心とご恩報謝」 (山鹿市 山鹿組 常法寺 佐々木高彰)

2024/10/01 09:00

ご当流のみ教えは、「信前行後」がご定です。

その心を親鸞聖人は『正像末和讃』に、

  「弥陀の尊号となへつつ 信楽まことにうるひとは

    憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」

と示されます。

壮年期を過ごした関東から六十歳を超えて再び京都にお戻りに成った親鸞聖人には、関東同行から多くの質問が送られて参ります。聖人は折々にお便りを認(したた)められました。

その中で、関東の同行に対し、

 「我が心の悪き往生は無理と言う人には、心のままにて往生は一定ですと申して下さい。しかし、お念仏のお誓いを聞いて、阿弥陀様のお心を深く信じる人は、薬ありとて、毒好むべからずとなるのです。」

と戒めておられます。

その心を滋賀県の覚上寺超然和上は、著書『里耳譚(りじたん)』に

「寝姿に 叱り手の無き 暗さかな」

と。 阿弥陀様のお救いは如何なる者も救います。「本願を妨げる程の悪無きゆえに」と…。

 しかし、お慈悲を喜ぶ様に成った人は、

「寝姿の 美しゅうなる 夜寒かな」

 如何なる姿も許すとは言うとも、真冬寒い中に布団を蹴飛ばして寝る人は居ません。自ずと襟元を整えて休む様に、仏様の心を模倣して生きるのも、ご恩報謝の姿です。

 昭和三十四年九月二十六日、東海地方は、伊勢湾台風の大被害を被りました。京都で多くの学生さん達が街頭に出て募金活動をしたとき、独りの小学生が学生さんに向かって、

「お兄ちゃん、寄付は幾らでも良いですか?」

と。そこで学生さんが、

「幾らでも良いですよ。」

と。すると小学生は十円を募金箱に入れるや、三円おつりを頂戴と…。

学生さんは驚いて、

「ボウヤなにに使うの?」

と。すると、

「母のお手伝いで四条河原町まで嵯峨野から来て残りのお小遣いは二十円しかなく、帰りの電車賃が十三円必要です。そこで七円を寄付したいのです。」

と。学生さんは三円を手わたしました。すると電車の中から、

「お兄ちゃん、たった七円しか寄付できずにゴメンナサイ。」

と。この少年を学生さんは合掌して見送りました。

*するんじゃ無い させていただくのです。

読む法話「私の阿弥陀仏」 ( 益城町 益北組 壽徳寺 河邉梨奈)

2024/09/01 09:00

 マスクを手放せなかった日々からしてみれば、人の行き来も、各種行事も、元のペースに戻った感のある今日この頃ですが、文字通り「辛抱」をして過ごされた体験談をお聞かせ頂くことがあります。

 新型コロナウイルス感染症が流行し、親しい人と会う事さえ自粛せざるを得なかった時期に、お連れ合いをなくされた女性、Aさんがおられました。入院中の面会も思うようには許されず、訪れる人もいない中、Aさんは心細さに耐え、仕方ないのだと自身を納得させて覚悟しておられたそうです。

 ところが、通夜・葬儀の段になり、本来ならば多くの参列者で埋まるはずの場所が、がらんとした空席であったのを目にした瞬間、激しく動揺してしまったといいます。

 どうして、私の夫の通夜葬儀には誰も来てくれないの?と。

 「お腹の底からとんでもない怒りと情けなさが湧いて湧いて止まらなかったの、だから泣いちゃったの、亡くした悲しみとは違う涙が出たのよ。」

 時が流れて、何度目かの月参り。お茶を淹れつつポツリポツリと漏らされるその言葉を只々、聞かせて頂いたことでした。

 心は自分の意思でコントロールできるものではなかったのです。どんなに穏やかであろうと努めても、自分の起こした波によって一瞬で荒れていくのが私の心です。

  「いはんやわが弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦(じゅ)するに、無辺の聖徳(し
  ょうとく)、識心(しきしん)に攬入(らんにゅう)す。
          親鸞聖人著『教行信証 行巻』 ~元照律師(がんじょうりっし)の『弥陀経義』より引文~
  (現代語訳)
  「まして、 阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。 そこで、 この名号を耳に聞き、 口に称えると、 限り
  ない尊い功徳が心に入りこむのである。」

 阿弥陀仏は、そんな私の性質を見抜かれたのです。「波を立てるな」とは要求されず、私の状況、機嫌を問わない仏となられました。いかなる時でも声となって出る、六字の南無阿弥陀仏となられ、届いて下さるのです。
 北宋の元照律師(がんじょうりっし)は「私の阿弥陀仏」とよろこびを書き残されました。鎌倉時代の親鸞聖人もまた「私の阿弥陀仏」とよろこばれ、現代を生きる私に伝えて下さいました。

 去年、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要に2人の子どもと共に参拝しました。久しぶりのご本山、そして今回のような大法要のご縁に遇うことは難しいと思い、御影堂に響くような大きな声でお念仏しようと思ったのですが、子ども達が参拝する姿を見ていると胸がいっぱいになり、最初のお念仏は声に出すことが出来ませんでした。

 しかし、詰まった声、涙にむせぶ声、声にならないそのままで、お念仏は出るのです。
 さらには、嬉しくて弾む声、怒りに満ちた棘のある声、辛く沈んだ声、老いや病を得て、意のままにならない声、お念仏は声を選ばないのです。

 「識心に攬入(らんにゅう)す」の「攬」には「手中におさめて、よせる」の意味があります。阿弥陀仏の方から私をとらえて離さず、すべての功徳を私にふり向け、染み渡って下さるのです。

 心が波立たなくなるわけではありません。ですが、怒りと悲しみを露わにしながらも手が合わさり、お念仏なさるAさんのお姿に頭が下がるのです。

読む法話「人生の第四楽章」 (荒尾市 長洲組 西養寺 亀原了円)

2024/08/01 09:00

 浄土真宗本願寺派の僧侶の資格を頂きまもなく五十年、住職の任を預かり二十五年近くになり、古希の節目も近づいてまいりました。体の至る所や感覚の衰えが「老」を伝えてきます。間違いなく人生の最終行程に入ってきたなと実感していす。

 振り返れば僧侶として今日まで、お預かりのご門徒様や友人、知人の葬儀に携わった数は千人を超えました。思えば人は誰かを送り、誰かに送られてゆく命であります。必ず迎える命終、その刹那に何を思うか、何を考えるかは自らの人生を見つめ直す上で大変重要な時間であるように思います。それは交響曲でいえば第四楽章であり、クライマックスにあたるともいえるでしょう。

 お釈迦様が『涅槃経』というお経で「愛おしい人の死は悲しいけれど そこから何も学ぶ事がなかったらそれはもっと悲しい」と説かれました。また「人は出会いによって育てられるが、別れによって深められてゆく」とも諭されました。

 去年から今年にかけて有名人や芸能人の訃報が多く伝えられ、驚きや寂しさを感じています。しかしそれはある意味ニュースであります。しかし家族の死はニュースではありません。自らにとって一大事なものです。臨終からお通夜、葬儀等の時間帯の中をどう向き合い、そこにおいて何を思い、その後をどう生きようと考えるかは先逝く人のメッセージに応えてゆく大切な事のように思えます。

 何のために生きて来たのか、何のために生きているのか、このような問いに我々仏教徒の答えは単純明快です。仏様になるために生きて来たのです。生きているのです。

 命終わることは、
 死して亡くなる「死亡」
 ではなく
 往き生まれるとして「往生」
 と表現されます。

 往生を涅槃とも言い、これはサンスクリット語のニールバーナの音訳です。直訳は「完全燃焼」とされています。

 人としてのすべての煩悩から解放され、静かにさとりを迎えることです。命日とは単に死んだ日ではなく永遠の命をいただく二度目の誕生日と言えるかも知れません。

 親鸞聖人は、凡夫とは欲望や怒り、ねたむ心おおく、私中心に物事を捉え、臨終のその瞬間まで煩悩に支配されながら苦悩すると仰いました。しかし、その凡夫を他人事の様にしか思えない私が本当に阿弥陀如来の救いを聞くとき、凡夫は私のことであり、その私を目当てとしてくださったと知らされます。親鸞聖人は必ず仏にすると誓われた阿弥陀如来の誓いを頼りとされ、心の芯に置き、そのはたらきである南無阿弥陀仏のお念仏の生活を貫かれました。

 お釈迦さまは、柔らかい月の光が静かに蓮の花を開かされるように、この阿弥陀如来のはたらきを優しく私達に伝えて下さいました。人生の終わりにあたり大切な事は、ご信心をいただく事でありましょう。そこに大切なのは、仏法聴聞の生活の積み重ねであろうと思います。それは、そう遠くない日にまたいとしい人とお浄土で必ず遇えると信じて今日、今を、身近な人と、大切に生きてゆく事ではないでしょうか。

 有難うございました。

合掌

読む法話「無常の世に生きる」 (美里町 益南組 善宗寺 山﨑魁之)

2024/07/01 09:00
 2022年11月に叔母がこの世の縁尽き、浄土へ参りました。五十四歳でした。
  叔母は私の父の妹であり、私が日ごろ生活を営んでいる善宗寺で生まれ育ちました。 当然のように、私よりは父の年齢に近いので、私が物ごころがつくようになった時には、親であり、我が家に訪れる時にも従妹の「親」 という側面の方が私から見たときには大きかったように思います。
 ところが、叔母が一人で訪れる時には同じ叔母でも、従妹の「親」ではなく、私の祖父祖母に対しての「子」 としての側面が大きく見えるのです。
 これには、祖父祖母が健在かつ自宅で生活しているからという理由があるでしょう。 善宗寺の付近には特にこれといった面白いものはなく、何十年か前と周辺もそこまで大きな変化はしていません。 しかし、叔母にとってはこの、特に大きな変化をせず面白味のない場が、昔と変わらずに自分を「子」 として迎え入れてくれるかけがえのない場だったのです。
 しっかり者であれば「親」としての責任感が強く、大変に思う時もあるでしょうし、その他の肩書や役割を担うこともあります。その中で人間関係での悩みも当然のように出てきます。
 祖父母の前では叔母はそれらのしがらみをしばらく横に置き、純粋に「子」であることが出来るのです。 もちろん直面している事態に対しての悩みを話す事もありますが、それはやはり「親」を前に「子」に戻るという事を通して行われるのです。
 叔母は、祖父母が体調を崩した時には見舞いに来てくれていました。 祖父母が体調を崩し 「あと何か月ほど生きていられるだろうか」 と、気弱になる度に叔母は見舞いに来て励ましてくれていました。
 蓮如上人の『御文章』白骨章には、

「されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏とふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

とあります。
 儚いこの世に生きる私たちは老いた人と若い人、どちらが先に命を終えていくかは生まれた順番の通りではなく定まっていないことです。
 年老いた祖父母よりも先に叔母が命を終えていくそのすがたに老少不定の理を痛感しました。
 今年、2024年で当善宗寺の本堂は再建から二百周年を迎えました。 熊本地震の影響で柱の傾きが大きくなり倒壊の危険性が高まる中、現時点では本堂としての形をとどめています。同じ境内地にあった鐘楼は傾きがあまりにも大きくなっていた為に倒壊前に解体し撤去する決断を下しました。
 この無常の世の中で形あるものがそのままでいる事の困難さを思う時があります。その中でお寺の本堂がどのような場を提供できているだろうかと考える時があります。
 最近、コロナ禍で中止していた法要・行事を通年で行う事ができるようになってきました。
 先日の春彼岸会法要後に御門徒を見送っていると、呟くようにこう仰いました。
「故郷に帰ったようでした。」
 この言葉を聞いて私は非常に嬉しく思いました。 時代の変化に合わせ寺院には様々な変化が求められていると思います。 その中で今後とも変わらずに、お寺の本堂が合掌する中に「故郷に帰ったよう」で、「子」に戻ることが出来る場所であって欲しいと思います。

読む法話「救いを告げるお方」 (菊池市 菊池組 照嚴寺 髙田聡信)

2024/06/01 09:00

 阿弥陀という仏さまは、私たちに教えを告げられません。また教えを告げて私を育てるというお方でもありません。なぜならば、教えを告げたところでとらわれから一歩も離れることはできずに、煩悩を燃やし続けることしかできない私のことをよくよくご存じであったからです。教え育てようとしても、育てることができない私の状況をよくよくご存じであったからです。唯一つ救いを告げられるのでした。いつでもどこでも、この私を必ず救うと聞かせてくださるのが阿弥陀さまのお慈悲です。

 お寺によくおまいりになられる女性の方がいらっしゃいます。重い病気を患われまして、その入院中に出逢った看護師さんのことを私に話してくださったことがありました。

   大手術の後の傷口を毎日消毒してくださいました。そのとき看護師さんは一度も「痛いですか」と尋ねたことがあ
  りませんでした。いつも消毒しながらかけてくださる言葉は「痛いですね」「痛いですね」でした。この看護師さん
  の言葉に、私は思わず涙が止まらなかったのです。日頃から親戚やお友達、そして家族からも「大丈夫だから」「よ
  くなるから」と励まされていました。みんなが親身になって心配してくれているのをヒシヒシと感じたからこそ、そ
  の心がとてもうれしかったのです。そしてそれが私の大きな力になりました。でも、本音は怖かったんです。辛かっ
  たんです。逃げたかったんです。誰かにその本音を聞いてほしいと思ったけれど、誰にも言えませんでした。なぜな
  らみんな私を熱心に応援してくれていたからです。みんなの期待を裏切るようなことはしたくない、心配かけさせた
  くないと思ったからいつのまにか自分の本音を言えなくなっていました。その心の中に隠し張りつめていたものを寄
  り添い解きほぐすような言葉が「痛いですね」でした。その言葉に出逢った時に、思わず私は隠していた心の涙を隠
  すことができませんでした。

というお話でした。

 阿弥陀さまは、私の苦しみ悲しみをすでに知っているといつもご一緒してくださいます。そしてただご一緒してくださるだけではなく、あらゆる功徳を私に振り向けて根こそぎ救うと願いはたらいてくださるというのが阿弥陀という仏さまです。

 お念仏の生活は仏さまの確かな救いをよろこばせていただく日々であります。殺伐としていのちの触れ合いが少なくなってきている昨今、私だけでなく孤独感に襲われがちなすべての方々が、仏さまの温かい眼差しといのちの有り難さに触れてくださればと思います。

読む法話「本当の安心」 (西原村 益北組 慈雲寺 工藤恭修)

2024/05/01 09:00

 皆さんは普段生活をしている中で、何に安心を求めているでしょうか。こんな質
問をした時、「安定した生活に安心を感じる」と友人は答えてくれました。

 さて、皆さんはどうですか。安定した生活とは何を持って言えるでしょうか。金銭的な余裕、健康的な体、名声や地位でしょうか。確かにこれらがあれば、この人生は安心かもしれません。

 しかし、それを手にしたとしても、一瞬でその手から離れていくものでもあります。その事も理解しているからこそ、手から離れていく不安の中で生活をしなければならない、本当の安心とは言えないでしょう。

 浄土真宗という教えは、南無阿弥陀仏のお念仏をこの人生の本当の拠り所、支えがあきらかになる教えです。

 福岡でサラリーマンとして働いていた時の事。朝早くに仕事に向かい夜遅くに帰ってくる生活。そんな仕事ばかりの毎日で心身共に疲弊しきっていました。

 久々の休みを取り、地元である西原村に帰り近くを散歩していた時の事、梅の花の香りにつられふと上を見上げると、そこには咲き誇った紅梅と青く広がった空が目に飛び込んできました。

 仕事に追われ空なんて見る余裕などなかった事にハッと気付かされました。考えてみると子供の時はよく見上げていた空も、歳を重ねるにつれ目の前の物事をこなすうちにいつしか見る事さえしなくなっている。

 見上げた空は昔と見た空と変わらない青く澄んだ世界でした。昔を思い出すと、共に変わらない空に私はなんとも言えない安心を感じました。

 紅梅から様々な花に咲きうつろいゆく様に、私たちが生きている世界も常に移り変わりゆきます。心が追いつかない様な変化もある世界でもある。

 だからこそ「変わりゆく私、変わりゆく世界に生きているからこそ変わらないものが安心を与える」のでしょう。

 「どんなあなたであっても、どの様な生き方をしていようとも大丈夫、見捨てはしない。だからこの南無阿弥陀仏の道を生き抜いておいで」

 忙しなく動き変わり続け喜怒哀楽を繰り返す私たちを決して変わる事なく常に優しく包み込んで下さる仏がいらっしゃいます。その仏を阿弥陀仏と聞かせていただきます。

 決して変わらない安心を支えとし、このいのちを生き抜いて往くのです。