法話集
読む法話「真のお導師」 ( 芦北町 芦北組 覚円寺 黒田了智)
現在の葬儀は火葬で行いますが、かつて50〜60年ほど前までは、土葬の葬儀がまだ行われていました。土葬と火葬で色々な面で違いがありますが、一つは棺の形が違います。現在の棺はご遺体を寝せてご安置する「寝棺」ですが、土葬時代の棺は座らせてご安置する「座棺」でありました。寝棺であれば顔は上を向いておられるので、向きは問題になりませんが、座棺となると顔の向きが決まってきます。果たしてどちらに向けてご安置していたのでしょうか。
葬儀をお別れの式と捉えるならば、お参りの方と顔を合わせてという事で、参列の方の方に顔を向けていたのでは?と思いますが、そうではなく、仏様の方に顔を向け、参列の方には背中を向けてご安置していたようです。さらに、棺の上には葬儀の際に導師が付ける七條袈裟(しちじょうげさ)と七條袈裟の肩口につける修多羅(しゅたら)という紐を乗せてお勤めしておりました。この事は一体何を意味するのでしょうか。
葬儀の際にお勤めをする僧侶の事を「導師」といいます。真実の教えに導いて下さる先生という意味です。実際の導師はお手次のお寺の住職がされますが、「真のお導師」は亡くなられた故人である、という事が、先ほど挙げた棺のご安置の仕方に表されていた、という事であります。
それでは、何を教えて下さる先生なのか。まず、自らの生命を持って「誰もが必ず生命終えていかねばならない」という私たちの逃れ難い現実を教えてくださる先生であります。さらにその「必ず生命終えていかねばならない」私たちの生命を、決して死んで終わりの生命には終わらせないとはたらき、お浄土に生まれさせ仏と仕上げて下さる阿弥陀如来の教えに導いて下さる先生であります。もう既にお浄土に生まれられて、私たちもたどっていくお浄土への道筋を示して頂いた方でありました。
土葬から火葬へと葬儀の形は変われど、その心は変わりません。葬儀は単にお別れの式ではなく、私たちが大事な教えに遇わせて頂く尊いご縁であります。そしてそれを教えて下さるのが亡くなった故人でありました、という中に、別れの寂しさと共に、有難うございますと、手が合わさっていく事でありました。
読む法話「死んだら、どうなるの?」 (熊本市 託麻組 良覚寺 吉村隆真)
本年を振り返れば、元日に北陸地方で大地震が、2日には東京羽田空港で航空機事故、さらに3日には北九州市小倉北区で大規模火災まで発生し、心が痛む始まりとなりました。
私の身辺でも、12月30日にお二人が相次いで往生を遂げられ、年明け早々の通夜・葬儀でした。いつも死は「待ったなし」です。私たちの勝手な都合が入り込む余地さえありません。
一休さんの愛称で親しまれ、アニメの主人公のモデルでも知られる一休禅師(一休宗純)は実在した人物で、室町時代を生き抜いた臨済宗の僧侶です。様々な逸話が残されていますが、中でも次の短歌は有名です。
「門松や(は) 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
「門松」は正月を象徴するお飾りで、「冥土」は死後の世界を表す一般的な言葉です。「浄土」真宗の私たちには用のない言葉ですが、世間では「冥土のみやげ」などの表現で使われます。「一里塚」とは、当時の街道沿いに約4㎞毎に設けられていた道標で、旅人にとって欠かせない目印でした。この歌は、人生を死への旅路に例えて詠まれているのでしょう。新年を迎えると、世間は「めでたい」とお祝いムードですが、裏を返せば確実に一歩、自らの命日が近づいたことに他なりません。そのように考えてみるならば、「明けましておめでとう」の賀詞は、死というゴールへ向かって、また「一里」歩みを進めたという宣言とも言えます。その事実に目を向けず、浮かれてばかりいたのでは、この人生は夢か幻のように、瞬く間に過ぎ去ってしまうとの諭しでしょう。
人生の体感速度は、年齢に比例して加速する一方ではありませんか? 子どもの頃には徒歩ぐらいのスピードだったのが、やがて自転車、さらには自動車の速度へと加速し、今や高速道路を走っているような感覚で、あっという間に1年が過ぎ去っていきます。いつ・どこで・誰が・どのような事態に遭遇して死を迎えても不思議ではない無常の世を生きている私たちです。死の縁は無量であり、死は必然なのです。体脂肪率には個人差がありますが、生ある者の死亡率は例外なく100%です。多くの人は、この現前たる事実に気づいていないか、忘れたまま人生を謳歌しているかのようです。
ところで、あなたは飛行機に搭乗した経験があるでしょうか? 着陸できる確証がない状況では、決して離陸させないのが航空機の運航ルールです。自動車であれば、目的地の駐車場が混雑していても、路肩に停車して順番を待てば済みます。しかし、飛行機はそうはいきません。仮に見切り発進で飛び立ったとして着陸できなかった場合、上空を旋回して順番を待つことになります。受け入れ先の空港が見つからないまま燃料が尽きれば、墜落する事態を招きかねません。出発する前に着陸地点が確約されていなければならないのが飛行機です。
では、私たちの人生を考察してみましょう。誕生に際して、事前にさまざまな説明を受けて産声を上げた人など誰もいません。人生の意味や生きる目的はおろか、「死んだら、どうなるのか?」この問いに対する答えなど持ち合わせずに、まさに見切り発車でこの世に生を授かったのが私たちです。それはまさに、着陸地点の確約がないにもかかわらず飛び立ってしまった飛行機と同じです。飛行機であれば、離陸した空港に舞い戻るという方法もありますが、人生そうはいきません。いつ訪れるかもわからないタイムリミットへのカウントダウンが進む中、各々が与えられた制限時間内に確かな着陸地点を求めなければならないのです。こんなに心配な不確定要素はありません。
もし、あなたが搭乗した飛行機が徐々に高度を上げ、上空で安定飛行に入ったとしましょう。本来であれば、シートベルト着用サインも消え、ドリンクサービスが始まる安心できるひとときです。ところが、機長から「当機は只今のところ、着陸空港が決まっておりません。飛行中に探してみつける予定ではありますが、万が一みつからない場合は不時着、もしくは最悪の場合には墜落も覚悟してください」との緊急アナウンスが流れたとしたら、いかがでしょう? 恐怖と不安で機内は一瞬にしてパニックになるはずです。実は人生も同じ状況にあるという事実に、どれだけの人が気づけているでしょう?
「死んだら、どうなるのか?」この問いに確かな答えが与えられている人生は、安心できるフライトと言えます。しかし、そうでない人生に安心などありはしません。なのに、多くの人々は、着陸よりも目先のことばかりに一生懸命です。
間もなくシートベルト着用サインが点灯し、必ず着陸態勢に入るときが訪れます。人生に「ゴーアラウンド(着陸のやり直し)」はありません。
「死んだら、どうなるのか?」この宿題への答えを、お寺で一緒に確かめ合いませんか?
読む法話「ご安心とご恩報謝」 (山鹿市 山鹿組 常法寺 佐々木高彰)
ご当流のみ教えは、「信前行後」がご定です。
その心を親鸞聖人は『正像末和讃』に、
「弥陀の尊号となへつつ 信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」
と示されます。
壮年期を過ごした関東から六十歳を超えて再び京都にお戻りに成った親鸞聖人には、関東同行から多くの質問が送られて参ります。聖人は折々にお便りを認(したた)められました。
その中で、関東の同行に対し、
「我が心の悪き往生は無理と言う人には、心のままにて往生は一定ですと申して下さい。しかし、お念仏のお誓いを聞いて、阿弥陀様のお心を深く信じる人は、薬ありとて、毒好むべからずとなるのです。」
と戒めておられます。
その心を滋賀県の覚上寺超然和上は、著書『里耳譚(りじたん)』に
「寝姿に 叱り手の無き 暗さかな」
と。 阿弥陀様のお救いは如何なる者も救います。「本願を妨げる程の悪無きゆえに」と…。
しかし、お慈悲を喜ぶ様に成った人は、
「寝姿の 美しゅうなる 夜寒かな」
如何なる姿も許すとは言うとも、真冬寒い中に布団を蹴飛ばして寝る人は居ません。自ずと襟元を整えて休む様に、仏様の心を模倣して生きるのも、ご恩報謝の姿です。
昭和三十四年九月二十六日、東海地方は、伊勢湾台風の大被害を被りました。京都で多くの学生さん達が街頭に出て募金活動をしたとき、独りの小学生が学生さんに向かって、
「お兄ちゃん、寄付は幾らでも良いですか?」
と。そこで学生さんが、
「幾らでも良いですよ。」
と。すると小学生は十円を募金箱に入れるや、三円おつりを頂戴と…。
学生さんは驚いて、
「ボウヤなにに使うの?」
と。すると、
「母のお手伝いで四条河原町まで嵯峨野から来て残りのお小遣いは二十円しかなく、帰りの電車賃が十三円必要です。そこで七円を寄付したいのです。」
と。学生さんは三円を手わたしました。すると電車の中から、
「お兄ちゃん、たった七円しか寄付できずにゴメンナサイ。」
と。この少年を学生さんは合掌して見送りました。
*するんじゃ無い させていただくのです。
読む法話「私の阿弥陀仏」 ( 益城町 益北組 壽徳寺 河邉梨奈)
マスクを手放せなかった日々からしてみれば、人の行き来も、各種行事も、元のペースに戻った感のある今日この頃ですが、文字通り「辛抱」をして過ごされた体験談をお聞かせ頂くことがあります。
新型コロナウイルス感染症が流行し、親しい人と会う事さえ自粛せざるを得なかった時期に、お連れ合いをなくされた女性、Aさんがおられました。入院中の面会も思うようには許されず、訪れる人もいない中、Aさんは心細さに耐え、仕方ないのだと自身を納得させて覚悟しておられたそうです。
ところが、通夜・葬儀の段になり、本来ならば多くの参列者で埋まるはずの場所が、がらんとした空席であったのを目にした瞬間、激しく動揺してしまったといいます。
どうして、私の夫の通夜葬儀には誰も来てくれないの?と。
「お腹の底からとんでもない怒りと情けなさが湧いて湧いて止まらなかったの、だから泣いちゃったの、亡くした悲しみとは違う涙が出たのよ。」
時が流れて、何度目かの月参り。お茶を淹れつつポツリポツリと漏らされるその言葉を只々、聞かせて頂いたことでした。
心は自分の意思でコントロールできるものではなかったのです。どんなに穏やかであろうと努めても、自分の起こした波によって一瞬で荒れていくのが私の心です。
「いはんやわが弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦(じゅ)するに、無辺の聖徳(し
ょうとく)、識心(しきしん)に攬入(らんにゅう)す。
親鸞聖人著『教行信証 行巻』 ~元照律師(がんじょうりっし)の『弥陀経義』より引文~
(現代語訳)
「まして、 阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。 そこで、 この名号を耳に聞き、 口に称えると、 限り
ない尊い功徳が心に入りこむのである。」
阿弥陀仏は、そんな私の性質を見抜かれたのです。「波を立てるな」とは要求されず、私の状況、機嫌を問わない仏となられました。いかなる時でも声となって出る、六字の南無阿弥陀仏となられ、届いて下さるのです。
北宋の元照律師(がんじょうりっし)は「私の阿弥陀仏」とよろこびを書き残されました。鎌倉時代の親鸞聖人もまた「私の阿弥陀仏」とよろこばれ、現代を生きる私に伝えて下さいました。
去年、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要に2人の子どもと共に参拝しました。久しぶりのご本山、そして今回のような大法要のご縁に遇うことは難しいと思い、御影堂に響くような大きな声でお念仏しようと思ったのですが、子ども達が参拝する姿を見ていると胸がいっぱいになり、最初のお念仏は声に出すことが出来ませんでした。
しかし、詰まった声、涙にむせぶ声、声にならないそのままで、お念仏は出るのです。
さらには、嬉しくて弾む声、怒りに満ちた棘のある声、辛く沈んだ声、老いや病を得て、意のままにならない声、お念仏は声を選ばないのです。
「識心に攬入(らんにゅう)す」の「攬」には「手中におさめて、よせる」の意味があります。阿弥陀仏の方から私をとらえて離さず、すべての功徳を私にふり向け、染み渡って下さるのです。
心が波立たなくなるわけではありません。ですが、怒りと悲しみを露わにしながらも手が合わさり、お念仏なさるAさんのお姿に頭が下がるのです。
読む法話「人生の第四楽章」 (荒尾市 長洲組 西養寺 亀原了円)
浄土真宗本願寺派の僧侶の資格を頂きまもなく五十年、住職の任を預かり二十五年近くになり、古希の節目も近づいてまいりました。体の至る所や感覚の衰えが「老い」を伝えてきます。間違いなく人生の最終行程に入ってきたなと実感しています。
振り返れば僧侶として今日まで、お預かりのご門徒様や友人、知人の葬儀に携わった数は千人を超えました。思えば人は誰かを送り、誰かに送られてゆく命であります。必ず迎える命終、その刹那に何を思うか、何を考えるかは自らの人生を見つめ直す上で大変重要な時間であるように思います。それは交響曲でいえば第四楽章であり、クライマックスにあたるともいえるでしょう。
お釈迦様が『涅槃経』というお経で「愛おしい人の死は悲しいけれど そこから何も学ぶ事がなかったらそれはもっと悲しい」と説かれました。また「人は出会いによって育てられるが、別れによって深められてゆく」とも諭されました。
去年から今年にかけて有名人や芸能人の訃報が多く伝えられ、驚きや寂しさを感じています。しかしそれはある意味ニュースであります。しかし家族の死はニュースではありません。自らにとって一大事なものです。臨終からお通夜、葬儀等の時間帯の中をどう向き合い、そこにおいて何を思い、その後をどう生きようと考えるかは先逝く人のメッセージに応えてゆく大切な事のように思えます。
何のために生きて来たのか、何のために生きているのか、このような問いに我々仏教徒の答えは単純明快です。仏様になるために生きて来たのです。生きているのです。
命終わることは、
死して亡くなる「死亡」
ではなく
往き生まれるとして「往生」
と表現されます。
往生を涅槃とも言い、これはサンスクリット語のニールバーナの音訳です。直訳は「完全燃焼」とされています。
人としてのすべての煩悩から解放され、静かにさとりを迎えることです。命日とは単に死んだ日ではなく永遠の命をいただく二度目の誕生日と言えるかも知れません。
親鸞聖人は、凡夫とは欲望や怒り、ねたむ心おおく、私中心に物事を捉え、臨終のその瞬間まで煩悩に支配されながら苦悩すると仰いました。しかし、その凡夫を他人事の様にしか思えない私が本当に阿弥陀如来の救いを聞くとき、凡夫は私のことであり、その私を目当てとしてくださったと知らされます。親鸞聖人は必ず仏にすると誓われた阿弥陀如来の誓いを頼りとされ、心の芯に置き、そのはたらきである南無阿弥陀仏のお念仏の生活を貫かれました。
お釈迦さまは、柔らかい月の光が静かに蓮の花を開かされるように、この阿弥陀如来のはたらきを優しく私達に伝えて下さいました。人生の終わりにあたり大切な事は、ご信心をいただく事でありましょう。そこに大切なのは、仏法聴聞の生活の積み重ねであろうと思います。それは、そう遠くない日にまたいとしい人とお浄土で必ず遇えると信じて今日、今を、身近な人と、大切に生きてゆく事ではないでしょうか。
有難うございました。
合掌
読む法話「無常の世に生きる」 (美里町 益南組 善宗寺 山﨑魁之)
叔母は私の父の妹であり、私が日ごろ生活を営んでいる善宗寺で生まれ育ちました。 当然のように、私よりは父の年齢に近いので、私が物ごころがつくようになった時には、親であり、我が家に訪れる時にも従妹の「親」 という側面の方が私から見たときには大きかったように思います。
ところが、叔母が一人で訪れる時には同じ叔母でも、従妹の「親」ではなく、私の祖父祖母に対しての「子」 としての側面が大きく見えるのです。
これには、祖父祖母が健在かつ自宅で生活しているからという理由があるでしょう。 善宗寺の付近には特にこれといった面白いものはなく、何十年か前と周辺もそこまで大きな変化はしていません。 しかし、叔母にとってはこの、特に大きな変化をせず面白味のない場が、昔と変わらずに自分を「子」 として迎え入れてくれるかけがえのない場だったのです。
しっかり者であれば「親」としての責任感が強く、大変に思う時もあるでしょうし、その他の肩書や役割を担うこともあります。その中で人間関係での悩みも当然のように出てきます。
祖父母の前では叔母はそれらのしがらみをしばらく横に置き、純粋に「子」であることが出来るのです。 もちろん直面している事態に対しての悩みを話す事もありますが、それはやはり「親」を前に「子」に戻るという事を通して行われるのです。
叔母は、祖父母が体調を崩した時には見舞いに来てくれていました。 祖父母が体調を崩し 「あと何か月ほど生きていられるだろうか」 と、気弱になる度に叔母は見舞いに来て励ましてくれていました。
蓮如上人の『御文章』白骨章には、
「されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏とふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
とあります。
儚いこの世に生きる私たちは老いた人と若い人、どちらが先に命を終えていくかは生まれた順番の通りではなく定まっていないことです。
年老いた祖父母よりも先に叔母が命を終えていくそのすがたに老少不定の理を痛感しました。
今年、2024年で当善宗寺の本堂は再建から二百周年を迎えました。 熊本地震の影響で柱の傾きが大きくなり倒壊の危険性が高まる中、現時点では本堂としての形をとどめています。同じ境内地にあった鐘楼は傾きがあまりにも大きくなっていた為に倒壊前に解体し撤去する決断を下しました。
この無常の世の中で形あるものがそのままでいる事の困難さを思う時があります。その中でお寺の本堂がどのような場を提供できているだろうかと考える時があります。
最近、コロナ禍で中止していた法要・行事を通年で行う事ができるようになってきました。
先日の春彼岸会法要後に御門徒を見送っていると、呟くようにこう仰いました。
「故郷に帰ったようでした。」
この言葉を聞いて私は非常に嬉しく思いました。 時代の変化に合わせ寺院には様々な変化が求められていると思います。 その中で今後とも変わらずに、お寺の本堂が合掌する中に「故郷に帰ったよう」で、「子」に戻ることが出来る場所であって欲しいと思います。