法話集

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読む法話 「ほんとうにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」 (芦北町覺円寺 黒田了智)

2021/07/08 09:32
 3月まで「俺の家の話」というドラマが毎週金曜日に放送されていました。能楽の宗家の家庭を飛び出した、長瀬智也さん演じる元プロレスラーの長男が主人公で、倒れた人間国宝の父を介護する為に25年ぶりに家に戻ってくる、というストーリーです。「あまちゃん」や「いだてん」の脚本家、宮藤官九郎さんの作品という事で、毎週楽しみに観ておりました。
 最終回直前の週、西田敏行さん演じる父親は数度目の脳梗塞で倒れ危篤状態に陥りますが、奇跡的に助かります。ただ、その時の「しかし、奇跡は二度と起きなかった」というナレーションに、ああもうお父さんは長くないのだな、と思いながら最終回を迎えました。
 最終回、父親と主人公に何かよそよそしい態度の家族たち。何か変だなあと思って観ていると、衝撃の事実が判明します。亡くなったのは父親ではありませんでした。プロレスの引退試合の事故で主人公である長男が亡くなっていたのです(主人公は父親の目に映っていた幽霊でした)。「クドカン(宮藤官九郎さんの愛称)」らしい大どんでん返しの話でびっくりしましたが、それより衝撃を受けたのが、「お父さんが亡くなるに違いない」と私自身が思い込んでいた事です。
 普段お坊さんとして、法事やお通夜で「老少不定、年配者よりも先に若い方が亡くなるかもしれない、それがこの世の中ですよ」とお話しさせていただいているにも関わらず、私が一番「老いたる者が先に、若い者が後に」という固定観念に囚われていたのかもしれません。ドラマの放送後、インターネットのツイッターに投稿された「ほんとにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」という言葉が大変に心に沁み入りました。
 年若い方との別れを「逆縁」と言ったりしますが、「善知識(仏道に導いてくださる方)」と亡き方を仰いで行く別れもあります。平安時代の歌人、和泉式部は一人娘の死を受け入れる事が出来ず、その心を「子は死して たどりゆくらん死出の道 道知れずとて帰りこよかし(大意:子どもが死後に迷ったなら私の元に帰ってきて欲しい)」と詠んでいます。その和泉式部が仏様のみ教えに偶い、別れを受け入れていきます。その時に詠んだのが「仮に来て 親にはかなき世を知れと 教えて帰る 子は菩薩なり(大意:子どもは私を導いてくださる菩薩様でした)」という歌です。
逃れ難き現実を身を持ってお示し下さった仏様であった、と亡き方との別れを受け入れて行く事ができるのは、私たちのいのちそのものを全て抱きとって、必ず仏に仕上げるとはたらき続ける、阿弥陀如来様が側にいて下さるからであります。その阿弥陀如来様との出遇いの場が、お通夜や葬儀、年回法事などの仏事ではないでしょうか。