法話集

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読む法話 「聖(ひじり)の人」 (天草市 専念寺 山川正憲)  

2021/08/11 15:56
 昨年から続くコロナウィルス感染拡大による外出自粛やイベントの延期・中止は社会に大きな不安を与えています。
 私は今年二月にお説教の為、お寺を一週間留守にしました。すると、私が住んでいる地域では、「ご院家(いんげ:住職のこと)がコロナに感染して入院している」といううわさが広まってしまいました。火消しに奔走する最中、何でこういう事態になっているのか複数人の御門徒さんに質問していくと、皆一様に返ってくる答えが「みんながそう言っているから」という驚くべきものでした。平常時なら、疑ったり、事の真偽を確かめたりするのでしょうが、非常事態下では、不安が先立って皆が冷静さを欠いています。何の根拠もない単なるデマが「みんながそう言うから」という理由で事実にすり変わっていくことに私は恐ろしさを感じました。
 このような、他人を惑わしたり傷つけたりする行動を引き起こすのは不安や恐怖です。実はこの不安の根源は自身が抱えている自分本位な心、つまり煩悩にあります。
 親鸞聖人は『歎異抄(たんにしょう:親鸞聖人の語録)』の第九条で「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころ ぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」と述べられています。つまり少しでも病気にかかると死ぬのではないかと心細く不安に思われるのも煩悩の仕業だと冷静に受け止められております。
 このように冷静に受け止められたのは、親鸞聖人がお念仏のみ教えに出遇われていたからでしょう。自分を取り巻く環境の変化によって生じる不安の根源が、自身の抱えている煩悩にあるとお念仏を通して知らされていたからこそ、厳しい現実を冷静に受け止める ことができたのです。
 親鸞聖人の「聖」の字は「耳を呈する」という意味があり、また「ひじり」という呼称は「非知り」と字を当てることがあります。すなわち、親鸞聖人は自らを「愚禿(ぐとく)」と名のり、生涯教える人としてではなく、ただ共々に導かれ救われるものとしての喜びを語り続けられたのであります。弥陀の本願に照らされて、聞かねばならないのは他ならぬこの私、教えられなければならないのはこの私と、お念仏申す中で徹底して我が身と向き合い耳を傾けてゆかれたのが親鸞聖人でありました。
 この度、コロナ禍で致し方ないとはいえ、散々デマに振り回されて大変な憂き目にあいました。正直腹立たしくもありましたが、冷静に考えてみると私自身も須(すべか)らく煩悩に苦しんでいる存在であり、縁によっては加害者たりうるのです。私もまた自分本位な思いに翻弄されていたことに気づかされたとき、有り難いことに、地域の方々の流言飛語に対する怒り・腹立ちが徐々に和らいでいきました。
 親鸞聖人のように、如来の大悲を聞かせていただく歩みとは、どこまでも我が都合・我が心にとらわれながら苦悩を抱え生きていかなければならない、偽らざる私の姿と否応なく向き合っていくということです。そして、自己本位の心にとらわれ、はからずもやること為すことすべてが苦悩の種まきとなっている私に大悲の涙は注がれているのです。
 この大悲の涙は今苦悩の真っ只中に生きる私にお念仏となって「そのまま救う。 必ず救う。」とはたらきづめにはたらいてくださっております。
 一声一声のお念仏の裡(うち)に、果てしなく広く深いお慈悲のぬくもりを感じずにはおれません。
 お念仏を通して我が身と向き合いながら、煩悩に翻弄されることない人生を大悲のぬくもりと共に歩んでまいりましょう。