法話集
読む法話 「百重千重のお育て」 (上天草市 観乗寺 森島淳英)
2021/10/24 12:00
南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は
百重千重(ひゃくじゅうせんじゅう)圍繞(いにょう)して よろこびまもりたもうなり
この御和讃は私が大好きな親鸞様の詩の一つで、南無阿弥陀仏と称えればありとあらゆる仏様が私一人を百の輪、千の輪で取り囲んでお護りくださるという詩なのですが、親鸞様は私たちがお念仏を申すようになるのは、阿弥陀様の願いが他の仏様も揺り動かし、その諸仏の「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏が今私のお念仏になっていると教えてくださいました。そう考えると私はお念仏申す前から「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と私の目には見えませんが沢山の仏様がたより百重千重と取り囲まれて、願われて生きてきたという事を味わうことができます。それがなんとも有り難いのです。
以前長崎にご縁を頂き法座の後で、お茶を頂きながら若坊守さんよりこんな話を聞かせていただきました。「先生、私は日頃境内の保育園に勤めていますが、毎日かわいい光景を見ることができるんですよ」と話をしてくださいました。聞いてみると、3歳の女の子が曾じいちゃんに手を引かれて登園をしてくるそうです。その子が毎日本堂の前で手を合わせて「なまんだぶ、なまんだぶ」と小さな手を合わせてお参りをしているのです。不思議に思った若坊守さん、女の子に「お利口さんね、なんでお参りしているの」と聞いてみたそうです。すると3歳の女の子「先生、ばーちゃんが亡くなった、それで園長先生に聞いてみた」というのです。「園長先生(ご住職)になにを聞いたの」と聞き返すと「ばーちゃんは亡くなって何処に行ったの?と聞いたの」と言ったそうです。「園長先生なんて言った?」と聞くと、「園長先生は阿弥陀様の方を指さしてね、ばーちゃんはね、お浄土に行ったんじゃ、仏様になって嬢ちゃんをいつも見ているんだよと言ったよ、だから私はおばーちゃんにお参りする気持ちでお参りしているの」と答えたそうです。
この子は生まれて三年。生まれながらに手を合わせて生まれてきた子供がいると聞いたことは一度もありません。この子供が手を合わせお念仏するまで沢山の育てがあることが目に浮かぶのです。
この話に登場するのは、手を引いて登園をする曾じいちゃん、保育園でやさしく見守ってくださる若坊守さんと園長先生。そして今は目には見えませんが亡くなったおばーちゃん、それ以外にもその子の父母や沢山の百重千重といわれるほどの人に願われ、育てられ合わす両手を持たせてもらったのでしょう。
昔、和上様(わじょうさま:浄土真宗の学問を究めた僧に対する尊称)が「駿河の富士山と加賀の立山と一つの処へ寄せることができるとも、悪人凡夫が両手合わせて念仏することは難い。しかしその徒ら者が手を合わせて念仏するようになったのは地上に二つとない有りがたいことだ」といわれたとありますが、今手を合わせ、お念仏申しているわが身のすがたを思うとき、沢山の方々のお育て、阿弥陀様のありありとしたお影を感じずにはおれれません。まさに百重千重の願いの中の私でありました。
百重千重(ひゃくじゅうせんじゅう)圍繞(いにょう)して よろこびまもりたもうなり
この御和讃は私が大好きな親鸞様の詩の一つで、南無阿弥陀仏と称えればありとあらゆる仏様が私一人を百の輪、千の輪で取り囲んでお護りくださるという詩なのですが、親鸞様は私たちがお念仏を申すようになるのは、阿弥陀様の願いが他の仏様も揺り動かし、その諸仏の「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏が今私のお念仏になっていると教えてくださいました。そう考えると私はお念仏申す前から「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と私の目には見えませんが沢山の仏様がたより百重千重と取り囲まれて、願われて生きてきたという事を味わうことができます。それがなんとも有り難いのです。
以前長崎にご縁を頂き法座の後で、お茶を頂きながら若坊守さんよりこんな話を聞かせていただきました。「先生、私は日頃境内の保育園に勤めていますが、毎日かわいい光景を見ることができるんですよ」と話をしてくださいました。聞いてみると、3歳の女の子が曾じいちゃんに手を引かれて登園をしてくるそうです。その子が毎日本堂の前で手を合わせて「なまんだぶ、なまんだぶ」と小さな手を合わせてお参りをしているのです。不思議に思った若坊守さん、女の子に「お利口さんね、なんでお参りしているの」と聞いてみたそうです。すると3歳の女の子「先生、ばーちゃんが亡くなった、それで園長先生に聞いてみた」というのです。「園長先生(ご住職)になにを聞いたの」と聞き返すと「ばーちゃんは亡くなって何処に行ったの?と聞いたの」と言ったそうです。「園長先生なんて言った?」と聞くと、「園長先生は阿弥陀様の方を指さしてね、ばーちゃんはね、お浄土に行ったんじゃ、仏様になって嬢ちゃんをいつも見ているんだよと言ったよ、だから私はおばーちゃんにお参りする気持ちでお参りしているの」と答えたそうです。
この子は生まれて三年。生まれながらに手を合わせて生まれてきた子供がいると聞いたことは一度もありません。この子供が手を合わせお念仏するまで沢山の育てがあることが目に浮かぶのです。
この話に登場するのは、手を引いて登園をする曾じいちゃん、保育園でやさしく見守ってくださる若坊守さんと園長先生。そして今は目には見えませんが亡くなったおばーちゃん、それ以外にもその子の父母や沢山の百重千重といわれるほどの人に願われ、育てられ合わす両手を持たせてもらったのでしょう。
昔、和上様(わじょうさま:浄土真宗の学問を究めた僧に対する尊称)が「駿河の富士山と加賀の立山と一つの処へ寄せることができるとも、悪人凡夫が両手合わせて念仏することは難い。しかしその徒ら者が手を合わせて念仏するようになったのは地上に二つとない有りがたいことだ」といわれたとありますが、今手を合わせ、お念仏申しているわが身のすがたを思うとき、沢山の方々のお育て、阿弥陀様のありありとしたお影を感じずにはおれれません。まさに百重千重の願いの中の私でありました。
合掌称名。
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