法話集

法話集

布教団第一支部 紙面布教大会②

2021/11/09 12:00

 熊本教区布教団第一支部では毎年1月31日と5月31日に本願寺熊本別院にて布教大会を開催していますが、新型コロナのために2020年1月を最後に布教大会が開催できていない状態です。そこでこのたび若手布教使の研鑽もかねて文章による布教大会を行うことといたしました。
 若手布教使を中心に複数名が法話原稿を提出し、のべ10時間以上にわたるオンライン検討会を経て、8月にまずは3名の法話を掲載させたいただきましたが、今回11月は2名の法話を掲載させていただきます。
 今回の2名の法話は、文書にしたものを11月上旬に教区報等とともに教区内寺院へ郵送させていただいております。



「願いに照らされる<わたし>」

浄行寺 盛 智照

 『無量寿経』のなかで阿弥陀仏は、すべての生きとし生けるものの悩み・苦しみが取り除かれない限り決して覚りへは至らないと誓われています。そして、同じ『無量寿経』で阿弥陀仏はすでに覚られているということが説かれています。ということは、阿弥陀仏の願いは理屈の上では成就されたことになっています。
 ここで理屈の上でと申し上げたのは、阿弥陀仏の願いは私たち人間の営みによってのみ具体化されるからです。阿弥陀仏の願いは、常に自分以外の他者に寄り添おうとする利他の願いです。対してこの私が願ってしまうのは自分にとっての幸せばかりです。しかしそのような自分の殻に閉じこもったままでは、阿弥陀仏の大悲の願いに参入することはできません。と、理屈をこねてみましたが、やはりその願いに背を向けた生き方を選んでしまうのが私なのだと、そう思わされた出来事がありました。
 私は数年前から福岡県の宗門校で非常勤講師をさせて頂いております。講義や課外活動を通して若い学生たちと正面から向き合い、対話できる時間は私にとってかけがえのない時間でした。そのような環境がコロナの流行で一変します。すべての講義が遠隔授業となったのです。福岡に行かずに済むのでかえって楽なのでは、という淡い期待はたちまちのうちに吹っ飛び、毎日が授業準備とメール対応に追われ、最初の一ヶ月間は心休まる時間がありませんでした。気づけば講義の時間が何よりも苦痛な時間となっていました。一方、学校業務が「ステイホーム」になったおかげで家族との時間が増え、子どもたちと過ごす時間が何よりの癒しとなってくれていました。
 そんな中、学生の1人が突然講義に顔を出さなくなりました。何度かメールを送ってみましたが返信はありません。毎回必ず出席してくれていた学生だったので気にはなりましたが、私はそこまで事態を深刻には捉えていませんでした。「遠隔授業に飽きたんだろう」くらいに考え、「期末レポートさえ出してくれれば大丈夫かな」と楽観的でした。そしてそう捉えるにいたった最大の原因は、遠隔授業を最小限の労力で乗り切り、なるべくプライベートな時間を確保したいと強く思うようになっていた私のエゴによるものでした。
 後に、学生の欠席の原因が精神的な病によるものだったことを同僚の先生から教えていただきました。今になって思えば、同じクラスの仲の良い学生に尋ねたり、所属する学科の先生や学校に相談するなど、いくらでも対応策はありました。いいえ“今になって思えば”なんて真っ赤なうそです。本当はとっくに気づいていました。でもその頃の自分の殻の中だけでの幸せを求める生き方をやめられませんでした。
 後日その学生と一度だけ直接話す機会がありましたが、「ごめんなさい」の一言は言いませんでした。その一言で終わらせた気になるのはこれまた私のエゴでしょう。この学生のためにも、この出来事を糧とし、誰ひとり取り残さない授業運営を心がけていきたいと思います。
 親鸞聖人はこの現実において念仏者が得る利益の一つに「常行大悲」を挙げておられます。これは念仏に出遇った者が「常に大悲を行ずる」存在にならせていただくという意味です。換言すれば、“阿弥陀仏の願いを生きる”人生を歩ませていただく、ということになります。
 ただし、われわれは凡夫です。凡夫とは、だれかのために行動したくてもできないから凡夫なのではなく、わたしの生き方がだれかを傷つけたり、粗末に扱っていたとしても、そのことに気づくことさえできないがために凡夫なのです。そのような私たちが“阿弥陀仏の願いを生きる”ということは、常に真実に照らして <わたし>を省みる視座をいただくということです。 
 わたしの愚かさ、あさましさをすべて見抜いた上で、それでもなお阿弥陀仏からわたしに向けられた願いがあることを有難く思います。自己中心的にしか生きられないわたしが、阿弥陀仏の願いに出遇わせていただくことで、不完全ながらもその願いに報いる生き方がはじまります。そのような願いに出遇えたことに歓喜し、だからこそ願いに背く形でしかその願いに出遇えないことに慚愧し、これからもともに念仏の大道を歩ませていただきましょう。



「光を聞く」

長寶寺 藤川 顕彰

 昨今のコロナ禍で人との関りが少なくなり、改めて教えられたことがあります。心の奥底から感情をさらけ出し、自分自身や自分と関わってくださるものを知ることのできる場所が我々には必要ではないかということです。
 昨年4月末、ある20代の方から相談を受けました。その内容は以下の通りです。
 「最近尊敬する先輩が突然亡くなりました。私にとって人生の指針となるほどの先輩でした。身近な人が亡くなった経験がはじめてで、とても辛いです。他の親しい人達もいつかは亡くなるのかと思うと、その前に自分が先に死んでしまったほうがましとさえ思います。死への恐怖で夜電気を消して眠ることもできません。」
 青年は、自粛生活の中一人で考える時間が多く、苦しみがあふれ出て、誰に言いようもなく私にお話しされたとのことでした。
 この相談内容は、多くの方々が同じような経験をし、感じておられる苦悩だと思います。そして「仕方がない」「忘れよう」等の心の蓋をして、何とか気持ちを保とうとしておられる方も多いのではないでしょうか。私も同じような思いをもったことがあります。しかし、私には亡くなられた悲しみだけではなく南無阿弥陀仏の「教え」にあえて良かったと力いただくご縁がありますのでそのことをお話しさせていただきました。
 その「教え」の内容を具体的にいうと、まずは死んで終わらない「いのち」ということです。この青年の上で言えば、亡くなられた先輩は、これまで青年の大きな支えであったと思います。では亡くなられた後は無意味な存在かといえばそうでないということです。肉体は朽ち果ててもいのちの触れ合いは終わらないということです。
 次がその終わらない「いのち」の正体です。教えでは、亡くなったすべてのいのちを「仏さま」になられたとみます。仏さまとは如何なる存在かは、色々な見方がありますが、「導師」(導き手)という意味がわたしにとって一番の救いになっています。青年にとって先輩のいのちは青年を手を合わせる身へと導く存在になられたのです。さらに言うなら、教えの上ではすべてのいのちが仏さまになるとみるのですから、私も仏さまになれるのです。尊敬する先輩と、仏さま(導き手)という同じ立ち位置に立てるというのは、亡くなられた悲しみは変わらないですが、ちょっと嬉しいのではないでしょうか。以上のようなことを青年と一緒に確認させていただきました。
 先日その青年に今回この内容を紹介していいか尋ねました。その時、
 「いいですよ。おかげさまで前向きになれて、当時私が何を話したかさえ忘れてしまいましたけど、私の経験がお役に立てるのならうれしいです。」
 と、微笑みながらおっしゃいました。仏さまとなられた先輩を近くに感じながら力強く日常を送っておられるようです。
 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の御言葉の中に、「聞光力」(光を聞く力)という言葉があります。本来「光」は、照らし・照らされるものであって、聞くものではありません。では、どういった意味でこの「聞光」をうけとらせていただけばよいかというと、ここで大切なのは光とは何かということです。光とは「教え」であります。つまり、「聞光力」とは「教えがきこえてくるところの力」ということで、換言すれば教えは、わたしの、今回で言えば青年の闇を照らす光であり力となるということです。
 お寺にお参りすると、阿弥陀さまを仰ぎよろこんでいらっしゃる方を目にします。もちろん仰ぐことは尊いことです。ただ、忘れてはならないのは、その仰がせていただいている阿弥陀さまには目的があるということです。「あなたも苦しいね」という単なる哀れみだけではなく、必ずすべてのいのち(私)を仏にするという目的をもっておられます。お寺で「教えを聞く」ということは、人生を歩むうえで常に阿弥陀さまが私の力になると聞こえてくるのです。そういった意味で、教えを人生の闇を照らす「光」と親鸞聖人は仰いでいかれたのであります。
 「浄土真宗は聴聞に尽きる」という言葉の通り、念仏者にとって、阿弥陀さまのみ教えを聞くことは日常の要であり、これまでお寺の本堂や家庭のお仏壇の前でお聴聞のご縁が営まれてきました。しかし現在、インターネットの出現に昨今のコロナ禍が拍車をかけて、場所を問わずに画面上でお聴聞できるご縁が増えています。このことはより多くの機会で教えに触れることが出来る反面、場所としてのお寺やお仏壇の意義、お聴聞の意義が問われているように感じます。私にとって青年とのご縁は、青年のように自分をさらけだし見つめることのできる場所がご自宅の御仏壇の前であり、お寺であることを改めて考えさせられた出来事でした。