法話集

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読む法話「当たり前はこわい」 (熊本市 託麻組 眞法寺 眞壁法城)

2022/06/01 09:00

 突然ですが問題です。

 「上の反対は下、右の反対は左ですが、当たり前の反対は何でしょうか?」

 お分かりになりましたでしょうか。答えは「有り難う」です。

 「有り難い」とは、「有ることが難しい」、つまり、「滅多にない」ことであるから「感謝する」という意味で使われるようになったことばであります。「滅多にない」の反対は、「いつものこと、当たり前」といえるので「当たり前」の反対は「有り難う」となるのですが、この「当たり前」ということば、ちょっとこわい一面をもっていると私は最近感じています。

 実は私、3年ちょっと前に大腸がんの手術をしました。術後にリンパ節への転移が少し認められたので(ステージ3)、半年ほど点滴と薬による抗がん剤治療を行いまして、現在は約3か月に1回の検査を受けております。前回の検査は先月の5月でしたが、特に異常はありませんでした。

 さてこの検査、結局年に4回受けることになるのですが、血液検査だけで終わるのは1回だけで、残りはCT検査、MRI検査、大腸検査を順番にやっていきます。その中でも大腸検査は、前日の食事制限に始まり、朝から検査、結果が出るのは夕方になることもあり、かなり時間のかかるものになります。術後数回目までの検査のときは、たとえ一日がかりの検査になったとしても最後の「異常なし」を聞いて一安心して家に帰れていたのですが、検査に慣れ、何度も「異常なし」を聞いているうちに、いつの頃からでしょうか、前日から準備して一日検査して、そしてその結果が「異常なし」だと、

「今回の検査は、1回くらい飛ばしてもよかったんじゃないかな~」

と、何だかとても時間を損したみたいな気持ちになってしまっている自分に気がつきました。

 病気をしたとき、それまで「当たり前」だった健康が、実は大変有難いことだったと身をもって気づかされます。ですから、病気のとき、またその直後には、「異常なし」は「有難い」ことなのです。ところが病気から回復してしばらくたってしまうと、また健康が「当たり前」に戻ってしまい、その結果、「異常なし」も「当たり前」、そして出てきてしまうのは、「時間を損した」というような不平であり不満であります。

 できるだけそう思わないように気をつけてはいるつもりですが、「当たり前」という感覚は、どうやら人から感謝の心を奪ってしまうようであります。

 今日という一日を考えてみても同じです。「有り難き今日」と受け取るか、「当たり前の今日」と受け取るかで、同じ一日でもずいぶん違ってくることになります。前者の受け止めからは大切に過ごす一日が、後者の受け止めからはうっかりと過ごしてしまう一日が、ついつい目に浮かんできそうです。

 ちなみに、私たちがお経をお勤めするときは原則としてお経本を用います。何回も読んでいるので経文は覚えているのですが、お経本を用いるのが作法となっています。「当たり前のお経」ではなく、「有り難いお経」であることを身体全体で再認識するために先人の方々が作法として残してくださっているのです。