法話集

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読む法話「念仏の法に遇うとは (立派に生きたいけど)」 (八代市 八代組 願行寺 鹿本地上)

2022/12/01 09:00
 「立派な生活とは、感謝と反省を忘れず日々努力し向上していくこと」と言えば、誰しも頷きますし、確かにその通りです。
 「正しい生き方に努めましょう。そのためには感謝を忘れません。常にわが身を振り返り反省します。愚痴や不平を言いません。いつも喜びをもって暮らします。」確かにその通りです。
 しかしこの立派で正しい生活への希望を根底から乱すものがあります。それが私の身に満ちている煩悩です。いわゆる、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴です。
 人生が思うように行っている時は、貪欲という煩悩が働きだし感謝と反省の心を見失わせるのです。
 貪欲ですから、満足することがありません。もっともっと欲は膨らむばかりです。名誉、地位、財産、寿命、どれをとってみても「これで満足です。これ以上はいりません」とはならないのです。
 こんな時は多くの人が集まってきて、その人を褒めそやして追従しますが、「思いあがるな」と注意する人の言葉は耳に入りません。それで益々自惚れます。
 仕事が順調に進み、多額の財産を得て、高い地位につき、名が世に知られるようになり、周囲の人から「先生」と呼ばれるようになると、何か自分が偉くなったように思いあがります。
 反対に逆境になると、瞋恚という煩悩が働き出して平常な心を失わせます。病気になったり、年老いたり、身内を亡くしたり、仕事が上手くいかなくなったりすると、些細なことで腹を立て、他者が順調に暮らしているのを見て、嫉(そね)み、妬(ねた)み、羨(うらや)みといった思いに縛られ、ますます心は暗くなります。
 なぜ、お互いは順境に酔い、逆境に溺れるのでしょうか。
それは、お互いを支えている心のものさしが、愚痴という煩悩だからです。
 愚痴とは、自分中心(自分達中心)の心で、都合よくなれば浮き上がり、都合が悪くなれば沈み込んでいきます。愚痴は無明(むみょう)ともいわれます。煩悩が光を塞いでいて暗いのです。暗いので迷いから抜け出すことができません。
 念仏の法に遇うということは、このような煩悩の身を喚(よ)びさまし、そのような身をその身のまま抱きとって煩悩の身を解放し、生死(しょうじ)の海に沈みいく身のまま真実の浄土に渡してくださる、真実の智慧と慈悲のはたらきに思いをめぐらせていただく事なのでした。