法話集
読む法話「独りぼっちではない命」 (熊本市 熊本組 善教寺 西守騎世将)
令和六年の元日、新しい年を迎えられた祝福の雰囲気溢れる中、能登半島で震度7の大きな地震が起こりました。
この地震にて被災された皆様に心からお見舞い申し上げますと共に、一日も早く復興され元の穏やかな生活に戻られますことを心から念願しております。
現在宗派では石川県金沢市の金沢別院において浄土真宗本願寺派・能登半島地震支援センターを設置し、物資や災害支援ボランティアの受け入れを行っております。詳しくは、浄土真宗本願寺派金沢別院のホームページまたは特設ページをご確認下さい。https://jovial-notosien11.wordpress.com
さて、実は私のお寺も平成二十八年熊本地震において、本堂、住居の庫裡(くり)とも全壊しております。
このお寺は私の妻の実家で、当時は83歳になる妻の叔母が住職として一人でお寺を守ってきたのですが、この地震の影響で持病がいっきに進行し、そのまま入院、即住職引退となってしまいました。
妻は四人姉妹の長女ですが、両親は既に二人ともお浄土に参られており、姉妹も全員外に嫁いでおりますので誰も後を継げる者はおりません。
でもお寺は崩れたまま。
再建どころか後継者すらいない。
そんな中、「自分がやる!」と私は自然と手を挙げておりました。
崩れてしまったお寺を見て、私はどうしても放っておけなかった、と言うのが率直な気持ちでした。
私は元々会社を経営しております。
若い時に自分で創業し、長く経営者として人生を歩んできましたので、どうしても考え方の基準や思考が「自分」になりがちです。
そして年を重ねる毎にこの考え方はどんどん強くなっていきます。
従って「自分一人の力で生きている。誰にも頼らず生きている。ここまで来られたのは自分の力、自分の努力。誰にも頼らず、誰にも迷惑など掛けていない」…今思えば恥ずかしい限りですが、ただ自分が導いた結果だけにしか思いが巡らない、至らない考えしか持てない私でしたから、「なぜそうなったのか?」という「因」はあまり考えず、目の前の「果」だけを見て判断するので、結局そこにいろいろな迷いや苦が生じ、不安や思い通りにならない困難を抱え続け、いつも孤独で独りぼっち…そんな命を生きて来たのです。
私たちがいつも頂いておりますお念仏。
そのお念仏でありますが、単に「わたしがお念仏する」というわたし自身が導いた「果」ではなく、迷い苦しむ衆生を救おうと願い立たれた阿弥陀さまの願いが、「因」となって今わたしに直接届いているからこそのお念仏なのだと言うことを知りました。
有り難く尊い願いと功徳が南無阿弥陀仏となって今まさにわたしを支えて下さっているからこそ手が合わさり、お念仏を申している、ということを思い見ることは大切です。
そして、そもそもなぜ阿弥陀さまは衆生を救おうと願われたのか、という「因」について考えることは、最も重要なんです。
これを親鸞聖人は正像末和讃にて次のようにお示しになられました。
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり(註釈版聖典六〇六頁)
「阿弥陀さまは生きとし生ける、全ての命を救う願いを起こされましたが、そのお心をお尋ねすると、それは苦悩しながら生きるわたしを決して見捨てないためでした。そして長く大変な修行の功徳の全てをわたしに回し向けることを第一として、わたしの苦悩の解決をするための誓願を成就して下さいました」という、み教えです。
自力という自らの力でさとりに至ることもできず、放っておけば何をするかわからない。
危なっかしく、且つとても弱く、苦しみ迷いながら生きるのが、わたしです。
それでありながら、自分一人の力で生きている、誰にも頼らず生きている、ここまで来られたのは我が力なのだ、と勘違いしているわたしでもあります。
そんな危なっかしく、脆く、弱いわたしだからこそ、阿弥陀さまはどうしても放っておけず、とてつもなく長く大変な修行をされ、その功徳を全部わたしに振り向けて今まさに救って下さっているのです。
阿弥陀さまにとって、こんなわたしでもまさに我が子同然。
命の親さまとして常にわたしを心配して下さり、お念仏となって常に私に寄り添って下さっているのでした。
それに気付かされるのがお念仏であり、お念仏申すことで阿弥陀さまの功徳がわたしを包んで下さっていることに気付くのです。
決して孤独ではない、独りぼっちの命ではない。
そうお聞かせ頂くことが「念仏の衆生」としてお育て頂くことなのだと思います。
その後、私はすぐに得度して僧侶となり、お寺の住職を継がせて頂きました。
時間は掛かりましたが、やっとお寺の再建も始まりました。
各地で発生する災害によって、寺院や住宅が私のお寺のように全壊する悲しい出来事が起こっています。
「どうしようか…」と途方に暮れる気持ちは私もよくわかります。
でも焦らなくてもいいです。
時間が掛かってもいいじゃないですか。
規模が小さくたっていいじゃないですか。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と一緒に寄り添い、励まして下さる阿弥陀さまがご一緒です。
いつか再建を果たした暁に、「良かったね、頑張ったね。私も嬉しいよ。あなたと私で喜びを倍にして噛み締めよう」と寄り添って下さる阿弥陀さまがいつもご一緒です。
決して独りぼっちではないんです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏