法話集

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読む法話「人生の第四楽章」 (荒尾市 長洲組 西養寺 亀原了円)

2024/08/01 09:00

 浄土真宗本願寺派の僧侶の資格を頂きまもなく五十年、住職の任を預かり二十五年近くになり、古希の節目も近づいてまいりました。体の至る所や感覚の衰えが「老」を伝えてきます。間違いなく人生の最終行程に入ってきたなと実感していす。

 振り返れば僧侶として今日まで、お預かりのご門徒様や友人、知人の葬儀に携わった数は千人を超えました。思えば人は誰かを送り、誰かに送られてゆく命であります。必ず迎える命終、その刹那に何を思うか、何を考えるかは自らの人生を見つめ直す上で大変重要な時間であるように思います。それは交響曲でいえば第四楽章であり、クライマックスにあたるともいえるでしょう。

 お釈迦様が『涅槃経』というお経で「愛おしい人の死は悲しいけれど そこから何も学ぶ事がなかったらそれはもっと悲しい」と説かれました。また「人は出会いによって育てられるが、別れによって深められてゆく」とも諭されました。

 去年から今年にかけて有名人や芸能人の訃報が多く伝えられ、驚きや寂しさを感じています。しかしそれはある意味ニュースであります。しかし家族の死はニュースではありません。自らにとって一大事なものです。臨終からお通夜、葬儀等の時間帯の中をどう向き合い、そこにおいて何を思い、その後をどう生きようと考えるかは先逝く人のメッセージに応えてゆく大切な事のように思えます。

 何のために生きて来たのか、何のために生きているのか、このような問いに我々仏教徒の答えは単純明快です。仏様になるために生きて来たのです。生きているのです。

 命終わることは、
 死して亡くなる「死亡」
 ではなく
 往き生まれるとして「往生」
 と表現されます。

 往生を涅槃とも言い、これはサンスクリット語のニールバーナの音訳です。直訳は「完全燃焼」とされています。

 人としてのすべての煩悩から解放され、静かにさとりを迎えることです。命日とは単に死んだ日ではなく永遠の命をいただく二度目の誕生日と言えるかも知れません。

 親鸞聖人は、凡夫とは欲望や怒り、ねたむ心おおく、私中心に物事を捉え、臨終のその瞬間まで煩悩に支配されながら苦悩すると仰いました。しかし、その凡夫を他人事の様にしか思えない私が本当に阿弥陀如来の救いを聞くとき、凡夫は私のことであり、その私を目当てとしてくださったと知らされます。親鸞聖人は必ず仏にすると誓われた阿弥陀如来の誓いを頼りとされ、心の芯に置き、そのはたらきである南無阿弥陀仏のお念仏の生活を貫かれました。

 お釈迦さまは、柔らかい月の光が静かに蓮の花を開かされるように、この阿弥陀如来のはたらきを優しく私達に伝えて下さいました。人生の終わりにあたり大切な事は、ご信心をいただく事でありましょう。そこに大切なのは、仏法聴聞の生活の積み重ねであろうと思います。それは、そう遠くない日にまたいとしい人とお浄土で必ず遇えると信じて今日、今を、身近な人と、大切に生きてゆく事ではないでしょうか。

 有難うございました。

合掌