法話集・寺院向け案内

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読む法話「救われれるべき私であることを聞く」   (相良村 球磨組 聚教寺 恒松見照)

2025/05/01 09:00
 親鸞聖人は「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」(『教行信証』「信文類」)と示されました。 

 このお言葉は、阿弥陀如来が本願を起こされた理由は、只々この私のためであり、それを疑いなくいただけるご仏縁に出遇うことをお勧めくださっているものであります。

 つまり、救われるべ きは私であったとお聞きかせていただくことこそ、浄土真宗のみ教えにおいてもっとも大切なところといわれているのです。

 日頃この私は、毎日の生活に必死で、自分が楽になれることばかりを求め生きています。
 そして、自分と異なる思考や価値観を苦手とし、縁があれば争いまで起こしてしまう人生です。

 振り返りますと、今年2025年は「戦後80年」といわれます。
 まさに、人と人が引き起こしてきた戦争は「お互いの違いを認められない心」と「自分さえよければいいとする心」、そして「自分の方が正しいと思う心」が生み出したものではなかったでしょうか。

 かつて、本願寺第24代大谷光真ご門主が執筆された『愚の力』の中で、

 阿弥陀如来が救うといわれるのは、私がこのままではいけないから救ってくださるのです。
 私の側が「このままでいいのですよ」との姿勢であったならば、救いも何もいりません。

とご教示くださっています。

 このようにお聞きしますと、私のことを常にご心配くださり、「このままにしてはおかない」とおはたらきくださる阿弥陀如来のあたたかいお心を無駄にしないようにしたいと思わずにはおられません。

 み仏と共に生きておられた念仏者の方々を見習いたいものであります。