法話集・寺院向け案内
読む法話「いのちの終わり」(宇土市 宇土北組 宝林寺 經 智敬)
寒さ厳しいなかにも梅がつぼみをふくらませ、ちらほらと花を咲かせているのを見ると春のおとずれを感じます。
春を迎えるといろいろな花が次から次に咲き始めます。しかし、その咲きほこった花もやがては散っていく。
こんなうたがあります。
桜散る 梅はこぼれる 椿落つ 牡丹崩れて 菊は舞う
花のいのちの終わりを喩えあらわしたうたです。
桜は散り際の潔さから「散る」と言い、
梅は丸みのある花弁の散り際がぽろぽろと涙をこぼすように見えることから「こぼれる」と言い、
椿はポトリと「落ちる」と、牡丹は花弁の大きさから「崩れる」と言い、
菊は枯れた時の花弁が勢いよく散るところから「舞う」と言われています。
ちなみに、朝顔は「しぼむ」、紫陽花は枯れたままその場に残るので「しがみつく」と言うそうです。
このように、それぞれの花にいのちの終わりを喩えた言葉があるのです。
では、私たちはどのようにいのちを終えていくのでしょうか
一般には、あの方は「死んだ」、あの人は「亡くなった」のだと言われます。
しかし、それぞれの尊い人生を歩んだそのいのちの終わりが、ただ「死んだ」、「亡くなった」と言われるだけなのはとてもさびしく思います。
私たちは、阿弥陀さまのみ教えをいただいています。南無阿弥陀仏とお念仏申させていただく身にならせてもらいました。
お念仏をよろこぶものは、死んで「終わる」のではなく、「亡くなっていく」のでもなく、「生まれ往く」のだと聞かせていただきました。
親鸞聖人のご和讃に、
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし 久しくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
とあります。
迷いの中にしずんでいるこの私を必ずおさめとる仏さま。
「乗りて必ず」ではなく「乗せて必ず」とはたらいてくださり、どのような人生であっても決して見はなさず、この私を抱き取って仏とならしめお浄土へと生まれさせてくださる仏さまが阿弥陀さまなのです。
