法話集・寺院向け案内
読む法話 「いのちについて考えること」(熊本市 坪井組 佛嚴寺 高千穂光正)
今回の読む法話では一昨年にご往生された、私の恩師であります杉岡孝紀先生のお話をご紹介させていただければと思います。先生は浄土真宗について様々な視点から研究されていました。そして先生はご法話の中で阿弥陀如来の救いをわかりやすく伝えて下さいました。
「人間は一本の管、だが苦悩する管である」という先生のお言葉があります。パスカルというフランスの哲学者の『パンセ』の中の「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である…われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある…」という言葉を踏まえたものです。
これは先生の経験からのお言葉であります。長い間病気に苦しまれた先生はある時、吐血され緊急入院されました。病室で窓ガラスに映った自身の姿を見て、「口から何かを入れて、それが便となって出ていく一本の管にすぎない。人間は一本の管だ」と思われたそうです。
そしてただの管ではなく、人間は煩悩に催されて苦悩する管であるのだとおっしゃられました。煩悩とは心身を煩わせ、苦しませる人間の自己中心的な在り方です。この苦悩する管である私であるからこそ、阿弥陀如来は私を救いの目当てとするのだとお話しいただきました。
管は全ての生き物が持っています。それこそ、蜎飛蠕動(けんぴ・ねんどう:空を飛ぶ虫や地を這う虫など、あらゆる小さな生き物のこと)の類も管ですし、私も管、あなたも管です。しかし、他の生き物と違って、我々人間は苦悩することができます。その苦悩は煩悩に催された苦悩ですから、その苦悩に阿弥陀仏の働きがましますのです。その苦悩が光るんです。管が光るんだと思います。そのことに気付かされる時、管の入り口から言葉が現れてくる。自然と、力みなく、管から南無阿弥陀仏という言葉が出てくるんです。もちろん、痛みや苦しみがある時であってもお念仏が出ないということはあります。(『ともに生きる』りゅうこくブックス136、龍谷大学宗教部)
先生のお言葉は私にとって非常に印象的でした。煩悩を抱え、苦悩する私であるからこそ阿弥陀如来は私を救いの目当てと至り届いてくださるのだとお聞かせいただきました。そして、そのことをお聞かせいただいた私の口(管の入り口)からお念仏が溢れでてくださるのだと知らされました。まさに苦悩する私に阿弥陀如来はご一緒してくださるのだとお聞かせいただいたことでした。
またある時、先生は心について「スクリーンのようなものだ」とお話しされました。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり(『一念多念文意』註釈版聖典693頁)
私たちは煩悩を具足し、臨終の瞬間まで消えることはありません。そして、煩悩とは身心を乱し悩ませる心の活動であり、心の中にある「汚いもの」ではなく、心の間違った働きであるとお話しくださいました。怒り、妬み、嫉み、憎しみや悲しみはまさに私が持つ心のはたらきであり、それがスクリーンのようにこの私の心に映し出されているのでしょう。そして感情として、行動として心に映し出されるようにあらわれるのだとも考えさせられました。私を取り巻く環境や人間関係、様々な事柄も私の心のスクリーンに映し出されている、と言えるかも知れません。私のいのちの有り様がそこにあると言えます。
そしてこの私を間違いなく救いの目当てとしてくださったのが阿弥陀如来であります。私たちはただの管であると同時に苦悩するスクリーンのような心を持ち合わせ、煩悩を抱えて生きるいのちです。そんないのちである私が阿弥陀如来の大慈悲のはたらきに乗託することによって救われていくのだとお聞かせいただきました。先生のお話は私にとって、自分自身のいのちのありのままをお聞かせいただいたことでありました。先生とはご往生されてもうお会いすることも、お話しすることもできません。しかし、先生の人間のありのまま、煩悩の有り様をあらわした言葉、そしてそんな私であるからこそ阿弥陀如来は私を救いの目当てとするというお言葉は私にとってお念仏の道を示すお導きとして私の心に残っています。そんなお話をお聞かせいただいた私の口からお念仏が溢れでてくださる、ありがたいご縁です。
