法話集・寺院向け案内

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読む法話 「阿弥陀さまの願いによって完成されたお浄土」 (上天草市 満行寺 古川佐奈江)

2021/05/10 10:57
 私の実家はお寺ではありません。祖父母は田畑を営み、両親は共働きという家庭で私は育ちました。実家で母は毎朝、お仏壇にお仏飯をお供えし、さらに、お茶、お水、お酒という三点セットを供えていましたが、おそらくは祖母がそうしていたからでしょう。
 この法話をお読みくださっている方の中にも、亡くなった方がのどが乾かないようにと思い、お仏壇にお水をお供えされている方がいらっしゃるかと思いますが、阿弥陀さまの願いによって完成された極楽浄土には「八功徳水(はっくどくすい)」という八つの功徳が備わった水が存在します。①甘く②冷たく③軟らかく④軽く⑤清らかで⑥臭くなく⑦喉の渇きを潤し⑧お腹をこわすことのない水です。また、お浄土は全てが満たされた世界ですので、お腹がすいたとか、のどが渇いたということはありません。ですから私たちが亡くなられた方を心配してお水やお茶をお供えする必要はないのです。
 今、水はお店でも家庭でも簡単に手に入ります。場所によっては手を差し出すだけで自動で出てきます。いつも手に入って当たり前の世界では、災害が起こったときなどに初めて有難さを感じる水ですが、極楽浄土は常にその功徳を感受できる世界なのです。ですから、大切なお水を仏様にお供えするときには、華瓶(けびょう)という仏具にお水を入れ、香木を挿し、香りの八功徳水としてお供えいたします。ご飯をお仏飯器に盛るように、お水は華瓶に入れてお供えするのです。ただ、ご家庭のお仏壇となると華瓶は大変小さくなりますので、形ばかりになってしまうことも多いのですが、この事を知っているのか、知らないまま過ごすのかでは大きく違ってくると思います。
 母はこの事を知って、いつのまにかお茶もお酒もお供えしなくなりましたが、絶対にお供えしてはいけないとは申せません。実際、ご門徒の方で月忌参りに伺うと、お仏壇に可愛らしいコップで牛乳をお供えされているお家があります。いつまでも子を思う親心が込められているのを感じます。亡き子を偲び、阿弥陀さまのはたらきによって仏となられたいのちを敬い、悲しいだけでは終わらせない阿弥陀さまとの尊いご縁を毎回いただいております。
 極楽浄土は阿弥陀さまが私の事を願い、完成された世界です。いつまでも子を思う親心のように、いつでもどこでも私を思い、願い続けてくださっています。お浄土からのはたらきに手を合わせ、報恩感謝のお念仏を申すことであります。
 

読む法話 「この私がお念仏をお称えするということ」 (熊本市 眞法寺 眞壁法城)

2021/04/05 18:33

 先日の令和3年3月11日、東日本大震災からちょうど10年が経ちました。テレビでは当時の映像が流れ、私も地震が発生した14時46分に追悼の鐘を撞き、当時を振り返ったことでありましたが、今月4月には熊本地震からちょうど5年が経ちます。ふと、あのときの私はどんなことを考えていたのだろうと思い、当時の資料を探したところ、次の文章が見つかりました。熊本地震から一ヶ月を過ぎた頃に私のお寺からご門徒の方々にお配りしたお便りです(一部加筆修正してあります)。 

 地震から一月以上が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 今回の被災生活についてお尋ねすると、「水のありがたさをしみじみ感じました」というような声が一番多く聞かれます。たしかに私もそうでありました。
 熊本市は地下水に恵まれていますから、私は生まれてからこれまで水不足を感じたことは正直ありませんでした。しかし今回、蛇口をひねれば水が出てくることが当たり前だった生活から、地震のため蛇口をひねっても水が出ない、そのような生活への変化を余儀なくされました。しばらくして水道が復旧し再び水が出るようになったのですが、そのとき、それまで出て当たり前であった水は、有り難い水へと変わっていました。
 水が出ることは当たり前なのか、それとも有り難いことなのかという感覚の違いは、自力の念仏と他力の念仏の違いに通じる部分があります。
 つまり、この私がお念仏をお称えするのは、あくまで私の意思に基づく私の行為と解釈するのか、それとも、この私をお念仏をお称えする人間へと育てあげようとする阿弥陀さまの願いでありおはたらきであると解釈するのかという違いに似ているのです。
 お念仏をお称えするのは私の行為なのか、それとも阿弥陀さまのおはたらきなのか。この解釈の違いは、阿弥陀さまの願いがなければ、はたして私はお念仏をお称えするような人間であるのだろうかと思いを巡らすことから生じます。結論を言ってしまえば、自分の力でお念仏をお称えしていると思っている限り、阿弥陀さまのおはたらきに思いが至ることはありません。これは、先ほどの水でたとえるなら、水道の蛇口から水が出ている状態を見ても、その背後にある水源や水道管の存在に思いを巡らすことができなければ、「蛇口から水が出ているなぁ」という表面的な感想しか出てこないのと同じです。自分は自分の力でお念仏するような人間ではないというところに立てたとき、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを感じることができるのです。それは、水道の蛇口から出る水を見て、水源や水道管の存在に思いを巡らせることができるようになったときに初めて、「ここに水が出るためにはさまざまなご縁と色々な方のご苦労があったことだろうなぁ」と、その事実を深く受け止めることができるようになるのと同じであります。このように、私の姿を仏法を通して深く見つめ、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができるようになることを、「お育てをいただく」といいます。私も最初、お念仏は自分で称えているとしか理解できなかったのですが、いつのまにかお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができる身へと育てられています。思えば本当に不思議なご縁です。

 地震から5年が経ち、私のお寺の近所で地震の痕跡を目にすることはかなり少なくなりました。目まぐるしく変化する毎日の生活の中で、私の場合、当時の記憶を思い返す時間もだんだん少なくなってきています。しかし、熊本の状況が、私の状況が、どのように変わろうとも、阿弥陀さまの願いは全く変わることがありません。常にこの私にはたらき続けてくださっています。そしてこの私は、阿弥陀さまの願いが届いていなければお念仏をお称えするような人間ではないことにもやはり変わりはありません。
 約一年前から世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、私は今も変わらずにお念仏をお称えさせていただいております。阿弥陀さまのおはたらきの真っただ中で。




 

読む法話 「お通夜の法話」 (熊本市 浄行寺 盛 忍)

2020/12/01 12:00
「お通夜」と申しますのは、夜を通して、最後の看取り、看病をさせていただく場であります。また別の言い方をしますと、「夜伽(よとぎ)」と申します。「伽(とぎ)」とは、「お伽話(おとぎばなし)」のことであります。子供に寝物語をして、その相手をしたり…つまり、語り相手をし、看病することなんです。

 息をされてるわけではないけれど、まだ生きておられるお姿を装うのであります。

最後の別れに会えなかった親しき方々が大急ぎで駆けつけて、一夜最後の看病、最後のお看取りをさせてもらうひと時なのです。ただ涙にかきくれる方もありましょう。

 宮城 顗(みやぎ・しずか)という先生が、「人を失った悲しみの深さは、生前にその人からわが身が受けていた贈りものの大きさであった」という言葉を遺しておられます。

 喜びも悲しみも共にして、この厳しい人生を手をとり合って暮らしてきた、はげまし合って生きてきた人、また私をこの人間の世界へ送り出してくれた父や母。ここまで育ててくれた両親との別離。あるいは、幼子との別離の人もあり、深い悲しみと嘆きを心に味わわずにはおれないこの世の現実があります。

 その時、これほど大きな悲しみが私をおおってしまうのは、平素は気づかなかったけれど、その人がいてくれることで大きな支えや生き甲斐などをこの私がいただき続けてきたからだと気づかされます。つながりの中に自分というものを与えられて生きているのが私でありますなら、大切な人の死は、それまで向き合ったこともない自分自身の「いのち」の事実でもあったと知らされます。

 それじゃ時間決めてお通夜のお勤めするのは何かと言いますと、あれは「お夕事(おゆうじ)」夕方のお勤めなんです。ご本人はお勤め出来ませんから、皆が代わりにご一緒させていただいているのでありまして、亡き人にお経あげるんじゃないんです。

 辛く悲しい現実ではありますが、あなたの後ろ姿を無駄にはいたしません。私自身の人生に深いお育てをいただきましたと手を合わせ、お念仏申します。

 今夜のお通夜をご縁として、お参りくださいました皆さんと共に仏縁を結ばせていただくひと時でありたいと願うばかりであります。

読む法話 「仏事のこころ」 (八代市 願行寺 鹿本地上師)

2020/11/01 12:00
 私のいのちは 私一人のものでなく
 お父さんお母さんのものです
 そして お父さんお母さんのものだけでなく
 それぞれの おじいちゃん おばあちゃんのものです
 それは また
 ひいおじいちゃん ひいおばあちゃんのもので
 もちろん ひいひいおじいちゃん ひいひいおばあちゃんのものでもあります
 粗末になんか できますか
 不幸になんて なれますか
 いのちの根は いま 私に託されているのです

 これは、中日新聞に載っていた「いのちの根」という八木春美さんというお方の詩です。

 私のいのちの背後には無量のいのちがあります。亡き人を偲びつつ心静かに合掌するとき、いのちの深さ、広さに思いをいたすことができます。

  すべての生き物は例外なくいのち終わりますが、我々の平生は死ぬことなど忘れて、より豊かに、より有意義にと願って生活しています。それだけに身近な人の 命終は、家族の愛、医療努力など、人知のすべてが何一つ間に合わなかったことを知らされ、生かされて生きることを噛みしめる、かけがえのないご縁です。

  亡き人を偲ぶ心は、楽しかったこと、充分してやれなかったこと、言わなければよかったこと、叱られたこと、悲喜こもごもですが、「亡き人を思う心は、亡き 人に思われている証拠でもある」ともいわれます。浄土真宗の仏事は、すべて、ご恩報謝の営みであり、私を教え導くためのものであることを心したいもので す。

 我々は一回限りのこの人生を、悔いなく生きているのでしょうか。

 亡き人を敬い仏事を行うのは、仏事には、無常を忘れて暮らしている私をして、人生の厳格な事実に目を覚ませるはたらきがあるからです。

 このたびの仏事に「南無阿弥陀仏」と念仏申して、亡き人から呼びかけられている、共なるいのち、永遠なるいのちに目覚めて、ひと時ひと時を、大切に過ごしたいものです。

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読む法話 「与えられたいのち」 (小国町 善正寺 禿興宇師)

2020/10/01 12:00
みなさんは何度も読み返したくなるような文章がありますか?
 私は親鸞聖人のみ教えを学ばせていただくとき、ふと読み返したくなる文章がありま す。それは、龍谷大学宗教部が1978年5月21日に創刊し、無料で配布している『りゅうこくブックス』に書かれてある「発刊にあたって」という二葉憲香 元龍谷大学学長の文章です。ここに紹介させていただきます。

 「新緑の中に立って、われわれは、自然の新鮮ないとなみに目をみはる。一本の木、一 本の草、それぞれ違った新芽を出すが、それは、それぞれが考えてのことではない。緑の葉も、それに対応する光も与えられたものである。そのいとなみのなか に、われわれを振り返ってみると、同じように与えられた生命の中で、同じように真実をもとめる心を与えられていることを発見する。われを超えるはたらきの 根拠に立って、自己のありようを考える。そこに宗教の門があり、親鸞探求の出発点がある」という文章です。
 私たちを包むすべてが、われを超える はたらきである阿弥陀さまに与えられた命であります。生きとし生けるものすべてが阿弥陀さまのはたらきによって生かされ、救われるのです。私たちは自分の ことは自分で何でもできると思ってしまいがちでありますが、自分の髪の毛や指の爪などは自分の意思に関係なく勝手に生えてきます。年をとって老いたくない と思っても老いていかねばなりません。自分の意思など及ばない、われを超えるはたらきである阿弥陀さまに与えられ、生かされ、救われていく命なのです。
 南無阿弥陀仏とお念仏申し、阿弥陀さまにおまかせして日々を精一杯生かさせていただきましょう。

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読む法話 「救いの専門家」(上天草市 観乗寺 藤枝法弘師)

2020/09/01 18:00
「餅は餅屋」という諺があります。餅は餅屋でついてもらったものが美味しいように、ものごとはその道の専門家にまかせるのがいい、という意味です。
 ある方が、理髪店へ散髪に行かれたときの話です。耳の周りをカットしてもらう際に、「こうすればご主人もやりやすいだろう」とカットする側をご主人へ向けるために首を動かしました。反対側をカットしてもらう際も同じように首を動かしました。

 ところが、ご主人が言うには、「やりにくいから首を動かさずにじっとしといてくれ。」とのことでした。お客さんとしてはご主人がやりやすいように、よかれ と思って首を動かしました。ところが、はさみや剃刀などの刃物を持ってカットするご主人にとっては、お客さんに動かれると逆に刃物で傷つけかねないという ことで、やりにくかったのでしょう。
 理容師さんや美容師さんは、髪を切る専門家です。その作業中によかれと思って、切られる側のこちらが首を動かしても妨げでしかありません。
 阿弥陀さまは「私にまかせよ、必ずお前を救うぞ。だから私の名を呼んでくれ。」とおっしゃっています。私を救うために五劫の間思惟し、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間をかけて修行され、今まさにはたらきかけてくださっているお方です。
 仰せのままにおまかせし、お念仏申させていただくだけであります。私から「こうすれば救われるだろう」とあれこれ詮索する必要はありません。阿弥陀さまはいわば救いの専門家なのです。
 阿弥陀さまの前では凡夫のはからいは無用だということに改めて気づかせていただいたことです。

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