法話集
読む法話 「与えられたいのち」 (小国町 善正寺 禿興宇師)
2020/10/01 12:00
みなさんは何度も読み返したくなるような文章がありますか?
私は親鸞聖人のみ教えを学ばせていただくとき、ふと読み返したくなる文章がありま す。それは、龍谷大学宗教部が1978年5月21日に創刊し、無料で配布している『りゅうこくブックス』に書かれてある「発刊にあたって」という二葉憲香 元龍谷大学学長の文章です。ここに紹介させていただきます。
「新緑の中に立って、われわれは、自然の新鮮ないとなみに目をみはる。一本の木、一 本の草、それぞれ違った新芽を出すが、それは、それぞれが考えてのことではない。緑の葉も、それに対応する光も与えられたものである。そのいとなみのなか に、われわれを振り返ってみると、同じように与えられた生命の中で、同じように真実をもとめる心を与えられていることを発見する。われを超えるはたらきの 根拠に立って、自己のありようを考える。そこに宗教の門があり、親鸞探求の出発点がある」という文章です。
私たちを包むすべてが、われを超える はたらきである阿弥陀さまに与えられた命であります。生きとし生けるものすべてが阿弥陀さまのはたらきによって生かされ、救われるのです。私たちは自分の ことは自分で何でもできると思ってしまいがちでありますが、自分の髪の毛や指の爪などは自分の意思に関係なく勝手に生えてきます。年をとって老いたくない と思っても老いていかねばなりません。自分の意思など及ばない、われを超えるはたらきである阿弥陀さまに与えられ、生かされ、救われていく命なのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申し、阿弥陀さまにおまかせして日々を精一杯生かさせていただきましょう。
私は親鸞聖人のみ教えを学ばせていただくとき、ふと読み返したくなる文章がありま す。それは、龍谷大学宗教部が1978年5月21日に創刊し、無料で配布している『りゅうこくブックス』に書かれてある「発刊にあたって」という二葉憲香 元龍谷大学学長の文章です。ここに紹介させていただきます。
「新緑の中に立って、われわれは、自然の新鮮ないとなみに目をみはる。一本の木、一 本の草、それぞれ違った新芽を出すが、それは、それぞれが考えてのことではない。緑の葉も、それに対応する光も与えられたものである。そのいとなみのなか に、われわれを振り返ってみると、同じように与えられた生命の中で、同じように真実をもとめる心を与えられていることを発見する。われを超えるはたらきの 根拠に立って、自己のありようを考える。そこに宗教の門があり、親鸞探求の出発点がある」という文章です。
私たちを包むすべてが、われを超える はたらきである阿弥陀さまに与えられた命であります。生きとし生けるものすべてが阿弥陀さまのはたらきによって生かされ、救われるのです。私たちは自分の ことは自分で何でもできると思ってしまいがちでありますが、自分の髪の毛や指の爪などは自分の意思に関係なく勝手に生えてきます。年をとって老いたくない と思っても老いていかねばなりません。自分の意思など及ばない、われを超えるはたらきである阿弥陀さまに与えられ、生かされ、救われていく命なのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申し、阿弥陀さまにおまかせして日々を精一杯生かさせていただきましょう。
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読む法話 「救いの専門家」(上天草市 観乗寺 藤枝法弘師)
2020/09/01 18:00
「餅は餅屋」という諺があります。餅は餅屋でついてもらったものが美味しいように、ものごとはその道の専門家にまかせるのがいい、という意味です。
ある方が、理髪店へ散髪に行かれたときの話です。耳の周りをカットしてもらう際に、「こうすればご主人もやりやすいだろう」とカットする側をご主人へ向けるために首を動かしました。反対側をカットしてもらう際も同じように首を動かしました。
ところが、ご主人が言うには、「やりにくいから首を動かさずにじっとしといてくれ。」とのことでした。お客さんとしてはご主人がやりやすいように、よかれ と思って首を動かしました。ところが、はさみや剃刀などの刃物を持ってカットするご主人にとっては、お客さんに動かれると逆に刃物で傷つけかねないという ことで、やりにくかったのでしょう。
理容師さんや美容師さんは、髪を切る専門家です。その作業中によかれと思って、切られる側のこちらが首を動かしても妨げでしかありません。
阿弥陀さまは「私にまかせよ、必ずお前を救うぞ。だから私の名を呼んでくれ。」とおっしゃっています。私を救うために五劫の間思惟し、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間をかけて修行され、今まさにはたらきかけてくださっているお方です。
仰せのままにおまかせし、お念仏申させていただくだけであります。私から「こうすれば救われるだろう」とあれこれ詮索する必要はありません。阿弥陀さまはいわば救いの専門家なのです。
阿弥陀さまの前では凡夫のはからいは無用だということに改めて気づかせていただいたことです。
ある方が、理髪店へ散髪に行かれたときの話です。耳の周りをカットしてもらう際に、「こうすればご主人もやりやすいだろう」とカットする側をご主人へ向けるために首を動かしました。反対側をカットしてもらう際も同じように首を動かしました。
ところが、ご主人が言うには、「やりにくいから首を動かさずにじっとしといてくれ。」とのことでした。お客さんとしてはご主人がやりやすいように、よかれ と思って首を動かしました。ところが、はさみや剃刀などの刃物を持ってカットするご主人にとっては、お客さんに動かれると逆に刃物で傷つけかねないという ことで、やりにくかったのでしょう。
理容師さんや美容師さんは、髪を切る専門家です。その作業中によかれと思って、切られる側のこちらが首を動かしても妨げでしかありません。
阿弥陀さまは「私にまかせよ、必ずお前を救うぞ。だから私の名を呼んでくれ。」とおっしゃっています。私を救うために五劫の間思惟し、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間をかけて修行され、今まさにはたらきかけてくださっているお方です。
仰せのままにおまかせし、お念仏申させていただくだけであります。私から「こうすれば救われるだろう」とあれこれ詮索する必要はありません。阿弥陀さまはいわば救いの専門家なのです。
阿弥陀さまの前では凡夫のはからいは無用だということに改めて気づかせていただいたことです。
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