法話集
布教団第一支部 紙面布教大会①
熊本教区布教団第一支部では毎年1月31日と5月31日に本願寺熊本別院にて布教大会を開催していますが、新型コロナのために2020年1月を最後に布教大会が開催できていない状態です。そこでこのたび若手布教使の研鑽もかねて文章による布教大会を行うことといたしました。
若手布教使を中心に複数名が法話原稿を提出し、のべ10時間以上にわたるオンライン検討会を経て、まずは3名の法話を掲載させていただきます。
教区内寺院へは7月末に教区報等とともに文書にしたものを郵送させていただきました。
「君は君 私は私 でも同行」
浄影寺 青木崇信
「君は君 私は私 でも同行」 広島県超覚寺様の掲示板のことば。
感染拡大が進むなか、人と人との隔たりに思い悩んでいた時に出会ったことばでありました。「同行」とは、阿弥陀さまの同じ救いの中にある仲間という意味です。
阿弥陀さまは、すべてのいのちのすがたをことごとくご覧になり、そのすべてのいのちを漏らさず救う仏さまであります。 南無阿弥陀仏の声の仏さまとなり、いついかなるときも、どのようなすがたであったとしても私にいつもご一緒して下さいます。
「ひとりで寂しいから、外に出れば誰かに会えると思って出てきてしまいました」大晦日、渋谷の街に一人佇むマスク姿の若者の言葉。繁華街に集まる人たちを「不要不急」と必要以上に吊し上げる人々がTVなどのメディアでクローズアップされ、”自粛警察“という言葉も生まれたこの一年。私も知らず知らずのうちにその流れに乗り、TVの前で声高に「不要不急」と叫んでおります。ですが、「出てきてしまいました」とのマスク越しの声は、おそらく感染症を軽んじているわけではないでしょう。繁華街に出ることが好ましいことではないと理解した上で、それでも尚、出るよりほかなかったとの叫びのようにも聞こえます。TVを付ければいつも以上に華やかな番組ばかりの年末年始。おそらく実家に帰ることも許されず、部屋でひとり孤独に押しつぶされそうな不安な状況の中、人を感じる場を求めることはその若者にとって「不要不急」ではなかったのかもしれません。
一方で、他を吊し上げ「不要不急」と声高に叫んでいる時の私もまた、実は不安の只中にあります。感染症への不安はもとより、コロナ禍による社会の変化で居場所を失うことへの不安。自粛をしているが故に人と会えず孤独を感じる日々。だからこそ自粛を頑張れば頑張るほど、繁華街に赴く人を見れば腹立たしく思い、他を攻撃しその不安を紛らわせているのです。しかしながら、メディアで”自粛警察“と批判されればまた不安に逆戻り。それでも、よくないことだと自覚しながらも「不要不急」の声を止めることができません。また、初めてひとり暮らしをした時、寂しさからひっきりなしに友人に電話をしていた過去を思い返すと、前述の若者と同じ環境であったならば、リスクがあるとわかりながらもマスクを着け繁華街に赴く衝動を止めることはできないでしょう。今の私と過去の私、環境は変化してもその時々で不安や孤独を感じていることに変わりありません。どちらも不安や孤独を抱えながらも、そこから解決する術を持ち合わせていないのが苦悩の私のすがたであります。
その私のすがたをご覧になり、悲しまれ、その私を救いのめあてとされたのが阿弥陀さまです。不安と苦悩の歩みを自ら止めることのできない私を見抜いて、阿弥陀さまの方より救いの中に摂め取り、決して捨てることはありません。そして、声となりことばとなり「南無阿弥陀仏。あなたはすでに救いの中にありますよ。不安にはさせません、ひとりにはさせません、決して見捨てません。どんな時でもあなたと一緒に居りますよ。南無阿弥陀仏」と救いを告げて下さいます。
阿弥陀さまはすべてのいのちを救う仏さま。それは、私がいついかなるときも、どのようなすがたのときも決して見捨てることはありません。自粛を頑張れば頑張るほど不安や孤独を感じて他を吊し上げかねない私、孤独に押しつぶされそうになりリスクを顧みず繁華街へ赴きかねない私、縁に触れればいかようにも変わっていく私を見抜いて、悲しまれ、そのすべてに寄り添い続けて下さるのが阿弥陀さまです。変わっていく私を救うには、すべてを救う仏さまとなるよりほかなかったのです。
「君は君 私は私 でも同行」このことばは、前述の相反する二者が、実は同じ苦しみを抱え、その苦しみの存在をめあてとする阿弥陀さまの同じ救いの中にあったということ。同時に、二者のすがたは私のすがたであり、そのすがたに、私自身が改めて阿弥陀さまの救いの中にあったことを確かめさせていただきました。
私が「不要不急」と声高に叫んでいるとき、お恥ずかしいことに自らは相手より優れているものとして、正しいものとして攻撃しています。しかしながら、自らが阿弥陀さまの救いのめあてである悲しい存在であることが明らかになったとき、相手よりも私が優れているどころか、反対に教え導いて下さっていたお同行であったと気付かされたことでした。
大変お恥ずかしく、そして大切なことに向き合わせていただいたご縁でありました。
「人生を支えるもの」
光輪寺 岩男真智
よく晴れた朝、お参りに行く道すがら、ある家の前で「いってきまーす。」と大きな声が聞こえました。小学生の男の子とその子のお母さんが玄関から出てきて、外まで見送りをしているようです。男の子は、私に気付くと大きな声で「おはようございます。」と挨拶をしてくれて、私の前を走って行きました。微笑ましい親子だな、いい子だなと思いながら男の子の背中を見ていると、ぱっと後ろに振り返って何度も手を振りながら「おかーさーん。」と言っています。驚いて私も一緒に振り返ってみると、お母さんはまだ、男の子の見送りをしながら「いってらっしゃーい。」と言って、手を振っているのです。また男の子は前を向き走り始めましたが、少し進むと振り返りお母さんに手を振っています。結局、ずっとお母さんは手を振りながら、男の子に声をかけ続けていました。男の子も、遠くに行けば行くほど叫ぶように「おかーさーん」と、呼び続けていました。
この光景を見ていると、小学校の頃の記憶がよみがえりました。思い返してみると、小学校の頃は母がいつも見送ってくれていたように思います。そして、その見送られることを覚えているということは、きっとあの男の子のように母の名を呼んでいたのでしょう。母は私が喜んで学校に出かける時は、元気に送り出してくれましたが、私が不安そうに学校に出かける時は、「大丈夫かな。」と心配そうに送り出してくれたものです。私はそんなことなどすっかり忘れていましたが、皆様にも母親に見送られたという想い出がある方もおられるのではないでしょうか。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、「子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」とお念仏のこころをうたわれています。そのおこころは、子どもが母親を慕うように、阿弥陀さまをいつでも忘れることなく信じ、お念仏するならば、この世においても、将来お浄土に生まれても、私のすぐ側に阿弥陀さまはいて下さるのですよと仰っています。
阿弥陀さまは私たちを我が子のように思って下さっていて、いつも私たちを見ておられます。そのおこころは、私が見た男の子のお母さんのように、見えなくなるまでわが子の手を振る呼びかけに答えようとするその姿と、似ているのかもしれません。そしてお母さんは、決して男の子の行く先に悲しい思いがないよう、苦しい思いがないよう、元気に家に帰って来ることを願いながら手を振っていたのだと思います。恐らく、その願いは男の子を学校に送り届けるだけの願いではありません。男の子の将来に至るまで、支え寄り添いたいという願いです。これからあの男の子は、私のようにお母さんとのやりとりを、何でもない日常として忘れていくのかもしれません。しかしこのような願いと愛情の中で育った男の子は、人生の苦しみにあっても母の名を呼び、母の面影がよみがえる時、「ひとりきりではなかった。私の人生には、いつも私を待ってくれる人がいたではないか。」と母の存在がそのまま、人生の支えであったのだと気づくのではないでしょうか。
この親の深い願い・愛情というものは、我が子までにしか及ばない限りのある心ですが、阿弥陀さまは、私たちひとつひとつのいのちを我が子として願いのすべてをかけて、限りなくはたらいて下さる仏さまです。その願いのままが「南無阿弥陀仏です。「南無阿弥陀仏」は「必ず救う。我にまかせよ。」という親が子を喚ぶ声であり、また同時に子が親の願いに「はい。ありがとうございます」と返事をする声でもあります。つまり、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまの親の名のりなのです。
阿弥陀さまは、いつでも私たちとご一緒です。手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀さまのお名前を呼ぶとき、私のそばに来て「あなたの親はここにいるよ。常に見護っているぞ。」と語りかけて下さっています。
私がお念仏の意味も分からず称えていた時からもずっと変わらず、途切れることなく親の様に阿弥陀さまに願われ、喚び続けられていたことを、ご和讃を通して知らせていただきました。そしてお念仏は、私をひとりにさせまいとする親の喚び声であり、その喚び声は私の人生を支え、生き抜く力そのものであると慶ばせていただいております。
「ぎんぎんぎらぎら」
両嚴寺 郡浦智明
民間宇宙船「クルードラゴン」に搭乗し約半年の間、宇宙に滞在していた宇宙飛行士の野口聡一さんが無事帰還されました。野口さんが宇宙に滞在している時、宇宙から見た地球の様子を写真に撮られて、日々インターネット上で紹介されていました。暗い漆黒の宇宙空間の中で、地球が綺麗に光り輝いている様子は、神秘的で美しいばかりです。ただそれを見ていて、私はふと疑問に思いました。「地球は光り輝いて見えるのに、宇宙はなぜ暗く漆黒に見えるのか。太陽の光は宇宙を通過しているはずなのに、なぜ地球だけ輝いて見えるのか。」と。調べてみると、地球には空気があり空気中にある微粒の塵に太陽の光が反射して、輝いて見えるという事がわかりました。その環境があるからこそ地球は、遥か彼方にある太陽から明るさやぬくもりなど、様々に恩恵を受ける事ができるというのです。それに対して宇宙の空間は、真空状態で空気もなく光を反射する環境がないので、暗くて冷たいというのです。光そのものが明るいわけではなく、光を反射する「めあて」がなければ、その明るさを感じることができないという事が、当たり前のようで改めて驚きでした。
『仏説阿弥陀経』に「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。」と説かれています。十方のあらゆる国をくまなく照らし、すべての衆生をさわりなく救いたまう、量り知れない光明の徳をもっておられるから「阿弥陀仏」と名づけたてまつるというのです。その光明のめあては、生死という苦悩を抱え迷い惑う衆生です。生死というのは生老病死の四苦といわれ生きるか死ぬかという話ではありせん。生まれてくる苦しみ、歳を重ねていく苦しみ、生きる上で病気も避けられないという苦しみ、命を終えていかなければいけない苦しみという根本的な苦しみの事です。自分の思い通りにならない苦悩を抱えている私が、阿弥陀さまのめあてなのです。
我が家に、今年で九十六歳になる祖母がいます。最近の出来事を忘れてしまう事が多くなった祖母ですが、お寺に嫁いできた時の事、戦時中に苦労した時の事など、昔の事は鮮明に昨日あった事のように話してくれます。そんな祖母が昔に戻った様子で、楽しそうに私の子どもたちに、いろんな唄を歌い聞かせてくれる事があります。『夕日』という童謡も祖母がよく歌ってくれて、子どもたちもすっかり覚えてしまいました。
「ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む」
祖母や子どもたちが一緒に歌う『夕日』を聴きながら、私はそこに唄われている情景を想像してしまいます。この唄の舞台がどこなのかはわかりませんが、そこに暮らしている人たちが、それぞれに夕日に照らされているような情景が唄われています。そこには、いろんな境遇や思いを抱えながら、精一杯生きようとしている老若男女がいる事でしょう。その一人一人が、夕日によって照らされ、真っ赤に染め上げられ、ぎんぎんぎらぎら輝いているような情景を想像するのです。
歌っているときは楽しそうな祖母ですが、最近は愚痴や弱音も増えてきました。年々足腰も弱り、認知症も少しずつ進んでいく中で、身も心も思い通りにならない自分自身に対して、情けなさや口惜しい思いが強いのかもしれません。そんな祖母ですが、日課である朝のお参りは欠かしません。朝食前に必ず本堂に座り、阿弥陀さまに向かって手を合わせ、普段は愚痴や弱音の多い口から、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と、お念仏がこぼれてきます。祖母が私に法話をする事はありませんが、祖母の口からお念仏がこぼれてくるすがたに、ご法話を聴聞したような思いになります。
「苦悩を抱え、思い通りにならない我が身だけれども、この身がそのまま阿弥陀さまのはたらく場所だったよ。生きるか死ぬかのむなしい人生ではなく、阿弥陀さまに照らされ支えられ、この人生を歩み抜ける道が共々にあるんだよ。」と。
祖母はその姿をとおして、同じ生死の苦悩を抱える私に、大事なことを教えてくれます。そのように思うと、私には祖母が輝いているように見えるのです。
読む法話 「ほんとうにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」 (芦北町覺円寺 黒田了智)
最終回直前の週、西田敏行さん演じる父親は数度目の脳梗塞で倒れ危篤状態に陥りますが、奇跡的に助かります。ただ、その時の「しかし、奇跡は二度と起きなかった」というナレーションに、ああもうお父さんは長くないのだな、と思いながら最終回を迎えました。
最終回、父親と主人公に何かよそよそしい態度の家族たち。何か変だなあと思って観ていると、衝撃の事実が判明します。亡くなったのは父親ではありませんでした。プロレスの引退試合の事故で主人公である長男が亡くなっていたのです(主人公は父親の目に映っていた幽霊でした)。「クドカン(宮藤官九郎さんの愛称)」らしい大どんでん返しの話でびっくりしましたが、それより衝撃を受けたのが、「お父さんが亡くなるに違いない」と私自身が思い込んでいた事です。
普段お坊さんとして、法事やお通夜で「老少不定、年配者よりも先に若い方が亡くなるかもしれない、それがこの世の中ですよ」とお話しさせていただいているにも関わらず、私が一番「老いたる者が先に、若い者が後に」という固定観念に囚われていたのかもしれません。ドラマの放送後、インターネットのツイッターに投稿された「ほんとにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」という言葉が大変に心に沁み入りました。
年若い方との別れを「逆縁」と言ったりしますが、「善知識(仏道に導いてくださる方)」と亡き方を仰いで行く別れもあります。平安時代の歌人、和泉式部は一人娘の死を受け入れる事が出来ず、その心を「子は死して たどりゆくらん死出の道 道知れずとて帰りこよかし(大意:子どもが死後に迷ったなら私の元に帰ってきて欲しい)」と詠んでいます。その和泉式部が仏様のみ教えに偶い、別れを受け入れていきます。その時に詠んだのが「仮に来て 親にはかなき世を知れと 教えて帰る 子は菩薩なり(大意:子どもは私を導いてくださる菩薩様でした)」という歌です。
逃れ難き現実を身を持ってお示し下さった仏様であった、と亡き方との別れを受け入れて行く事ができるのは、私たちのいのちそのものを全て抱きとって、必ず仏に仕上げるとはたらき続ける、阿弥陀如来様が側にいて下さるからであります。その阿弥陀如来様との出遇いの場が、お通夜や葬儀、年回法事などの仏事ではないでしょうか。
読む法話 「天下和順」 (氷川町 光澤寺 源明龍)
「仏所遊履 ~(中略)~天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起
国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲」
という仏の教えがある。意味は以下の通り。
「仏の行かれる所は、世の中は平和に潤い、太陽も月も清らかに照り輝き、風は程よく爽やか、雨も頃合いを計ったかのように降り注ぐ。災害や疫病などという名さえも聞くことなく、また起こりもしない。国は豊かに芳醇で、民の暮らしは安らぎ、軍隊や兵器等も役割を果たせるどころか無用の長物と化す。民衆は互いに敬い尊び合い、礼節を重んじ語り合う。」
過去より今日まで人々は自然災害や疫病の蔓延、戦争の脅威にさらされてきた。最近ニュースの顔はコロナの脅威目線と軍備拡張と内乱のことである。コロナ災禍といえばインドの姿が一番目に痛い。
昨年夫婦で(2020年1月20日より29日まで)金婚の記念に釈尊の聖地を巡拝した。そのとき懇切に現地を案内してくれた40代の彼が後日コロナで亡くなったと知らされた。医療崩壊が起き酸素(ボンベ)も足らず、1台のベッドを2人で使用している惨状だ。1日の感染者の数が3日連続で40万人を超えたとの報もある(5月8日付)。歴史の回顧に「もし」や「たら」はないが、釈尊がこの現状をご覧になられたらどう思われたであろうか…。
ふとそう考える私の頭に釈尊の法雷が轟く。「お前ならどう思う!」
もちろん、現状を打破し応急処置を施すのが仏教の本来ではない。しかし、仏は今まさに、光明無量・寿命無量のはたらきを以てこの現状に関わりづくめであろう。人間の次元では分かる術もない。仏の願いが浄土を根源的いのちの世界として、仏は遊履しておられる。遊履しておられる所とは、仏のご教化が行きわたる所、また念仏が広まっていく所の意である。そこに天下は和順し、国も豊み、人々は礼節を知り徳を尊び心豊かに平穏に暮らせ、兵隊兵器があっても、それらは全く役に立つことはない。「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と親鸞聖人御消息のお言葉を外に向かって大声で叫びたい。
読む法話 「阿弥陀さまの願いによって完成されたお浄土」 (上天草市 満行寺 古川佐奈江)
この法話をお読みくださっている方の中にも、亡くなった方がのどが乾かないようにと思い、お仏壇にお水をお供えされている方がいらっしゃるかと思いますが、阿弥陀さまの願いによって完成された極楽浄土には「八功徳水(はっくどくすい)」という八つの功徳が備わった水が存在します。①甘く②冷たく③軟らかく④軽く⑤清らかで⑥臭くなく⑦喉の渇きを潤し⑧お腹をこわすことのない水です。また、お浄土は全てが満たされた世界ですので、お腹がすいたとか、のどが渇いたということはありません。ですから私たちが亡くなられた方を心配してお水やお茶をお供えする必要はないのです。
今、水はお店でも家庭でも簡単に手に入ります。場所によっては手を差し出すだけで自動で出てきます。いつも手に入って当たり前の世界では、災害が起こったときなどに初めて有難さを感じる水ですが、極楽浄土は常にその功徳を感受できる世界なのです。ですから、大切なお水を仏様にお供えするときには、華瓶(けびょう)という仏具にお水を入れ、香木を挿し、香りの八功徳水としてお供えいたします。ご飯をお仏飯器に盛るように、お水は華瓶に入れてお供えするのです。ただ、ご家庭のお仏壇となると華瓶は大変小さくなりますので、形ばかりになってしまうことも多いのですが、この事を知っているのか、知らないまま過ごすのかでは大きく違ってくると思います。
母はこの事を知って、いつのまにかお茶もお酒もお供えしなくなりましたが、絶対にお供えしてはいけないとは申せません。実際、ご門徒の方で月忌参りに伺うと、お仏壇に可愛らしいコップで牛乳をお供えされているお家があります。いつまでも子を思う親心が込められているのを感じます。亡き子を偲び、阿弥陀さまのはたらきによって仏となられたいのちを敬い、悲しいだけでは終わらせない阿弥陀さまとの尊いご縁を毎回いただいております。
極楽浄土は阿弥陀さまが私の事を願い、完成された世界です。いつまでも子を思う親心のように、いつでもどこでも私を思い、願い続けてくださっています。お浄土からのはたらきに手を合わせ、報恩感謝のお念仏を申すことであります。
読む法話 「この私がお念仏をお称えするということ」 (熊本市 眞法寺 眞壁法城)
先日の令和3年3月11日、東日本大震災からちょうど10年が経ちました。テレビでは当時の映像が流れ、私も地震が発生した14時46分に追悼の鐘を撞き、当時を振り返ったことでありましたが、今月4月には熊本地震からちょうど5年が経ちます。ふと、あのときの私はどんなことを考えていたのだろうと思い、当時の資料を探したところ、次の文章が見つかりました。熊本地震から一ヶ月を過ぎた頃に私のお寺からご門徒の方々にお配りしたお便りです(一部加筆修正してあります)。
地震から一月以上が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今回の被災生活についてお尋ねすると、「水のありがたさをしみじみ感じました」というような声が一番多く聞かれます。たしかに私もそうでありました。
熊本市は地下水に恵まれていますから、私は生まれてからこれまで水不足を感じたことは正直ありませんでした。しかし今回、蛇口をひねれば水が出てくることが当たり前だった生活から、地震のため蛇口をひねっても水が出ない、そのような生活への変化を余儀なくされました。しばらくして水道が復旧し再び水が出るようになったのですが、そのとき、それまで出て当たり前であった水は、有り難い水へと変わっていました。
水が出ることは当たり前なのか、それとも有り難いことなのかという感覚の違いは、自力の念仏と他力の念仏の違いに通じる部分があります。
つまり、この私がお念仏をお称えするのは、あくまで私の意思に基づく私の行為と解釈するのか、それとも、この私をお念仏をお称えする人間へと育てあげようとする阿弥陀さまの願いでありおはたらきであると解釈するのかという違いに似ているのです。
お念仏をお称えするのは私の行為なのか、それとも阿弥陀さまのおはたらきなのか。この解釈の違いは、阿弥陀さまの願いがなければ、はたして私はお念仏をお称えするような人間であるのだろうかと思いを巡らすことから生じます。結論を言ってしまえば、自分の力でお念仏をお称えしていると思っている限り、阿弥陀さまのおはたらきに思いが至ることはありません。これは、先ほどの水でたとえるなら、水道の蛇口から水が出ている状態を見ても、その背後にある水源や水道管の存在に思いを巡らすことができなければ、「蛇口から水が出ているなぁ」という表面的な感想しか出てこないのと同じです。自分は自分の力でお念仏するような人間ではないというところに立てたとき、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを感じることができるのです。それは、水道の蛇口から出る水を見て、水源や水道管の存在に思いを巡らせることができるようになったときに初めて、「ここに水が出るためにはさまざまなご縁と色々な方のご苦労があったことだろうなぁ」と、その事実を深く受け止めることができるようになるのと同じであります。このように、私の姿を仏法を通して深く見つめ、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができるようになることを、「お育てをいただく」といいます。私も最初、お念仏は自分で称えているとしか理解できなかったのですが、いつのまにかお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができる身へと育てられています。思えば本当に不思議なご縁です。
地震から5年が経ち、私のお寺の近所で地震の痕跡を目にすることはかなり少なくなりました。目まぐるしく変化する毎日の生活の中で、私の場合、当時の記憶を思い返す時間もだんだん少なくなってきています。しかし、熊本の状況が、私の状況が、どのように変わろうとも、阿弥陀さまの願いは全く変わることがありません。常にこの私にはたらき続けてくださっています。そしてこの私は、阿弥陀さまの願いが届いていなければお念仏をお称えするような人間ではないことにもやはり変わりはありません。
約一年前から世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、私は今も変わらずにお念仏をお称えさせていただいております。阿弥陀さまのおはたらきの真っただ中で。
読む法話 「お通夜の法話」 (熊本市 浄行寺 盛 忍)
息をされてるわけではないけれど、まだ生きておられるお姿を装うのであります。
最後の別れに会えなかった親しき方々が大急ぎで駆けつけて、一夜最後の看病、最後のお看取りをさせてもらうひと時なのです。ただ涙にかきくれる方もありましょう。
宮城 顗(みやぎ・しずか)という先生が、「人を失った悲しみの深さは、生前にその人からわが身が受けていた贈りものの大きさであった」という言葉を遺しておられます。
喜びも悲しみも共にして、この厳しい人生を手をとり合って暮らしてきた、はげまし合って生きてきた人、また私をこの人間の世界へ送り出してくれた父や母。ここまで育ててくれた両親との別離。あるいは、幼子との別離の人もあり、深い悲しみと嘆きを心に味わわずにはおれないこの世の現実があります。
その時、これほど大きな悲しみが私をおおってしまうのは、平素は気づかなかったけれど、その人がいてくれることで大きな支えや生き甲斐などをこの私がいただき続けてきたからだと気づかされます。つながりの中に自分というものを与えられて生きているのが私でありますなら、大切な人の死は、それまで向き合ったこともない自分自身の「いのち」の事実でもあったと知らされます。
それじゃ時間決めてお通夜のお勤めするのは何かと言いますと、あれは「お夕事(おゆうじ)」夕方のお勤めなんです。ご本人はお勤め出来ませんから、皆が代わりにご一緒させていただいているのでありまして、亡き人にお経あげるんじゃないんです。
辛く悲しい現実ではありますが、あなたの後ろ姿を無駄にはいたしません。私自身の人生に深いお育てをいただきましたと手を合わせ、お念仏申します。
今夜のお通夜をご縁として、お参りくださいました皆さんと共に仏縁を結ばせていただくひと時でありたいと願うばかりであります。