法話集
読む法話「真実の拠り所」 (玉名市 高瀬組 安楽寺 入江祥裕)
「君、今何時かね?」
と尋ねました。すると青年は隣にいたヤギのお腹を持ち上げて、
「〇時〇分ですよ」
と答えました。
「適当に答えおって」
と思った教授は翌日、動く時計を持って青年に時間を尋ねました。青年はまた隣にいたヤギのお腹を持ち上げて、
「〇時〇分です」
と答えました。 そこで教授は動く時計を見て確認すると、時間はぴったり合っていました。「ヤギのお腹を持ち上げて時間が分かる?一体どういうことだ」
と思った教授はすぐに大学で研究を始めました。しかしどれだけ研究しても納得のできる答えは出ませんでした。お手上げ状態になった教授は、青年の元へ行き、
「君は、なぜヤギのおなかを持ち上げると時間が分かるのかね?」
と答えを聞きました。 すると青年はまた隣にいたヤギのおなかを持ち上げて、
「それはね、ヤギのおなかを持ち上げないと向こうにある時計台が見えないからなんだ」
と答えました。教授は今まで頼りにしてきた知識、すべてが何の役にも立たずお手上げ状態になりました。
私達も今までの人生でこれがあれば幸せだ、安心だと頼りにしてきた健康や家族や友人。これがあればきっと幸せになれると身も心もすり減らしてまで追い求めてきた地位や名誉や財産。もちろんこれらは幸せの材料であるかもしれません。しかし命終えようとする時、これらが何一つとして私の心の支えになってはくれません。私の知識でこれがあるから幸せだ、安心だと追い求めていた一つ一つは命終わる時に何の支えにもなってはくれません。すべて置いていかなければいけません。
抱えきることの出来ない苦しみを抱え、一人涙していかなければならなかった私に阿弥陀様は「もっと努力してその涙とめておいで」
とはおっしゃいませんでした。
「阿弥陀があなたを必ず浄土に生まれさせる。だからどうか任せておくれ。もう一人じゃない」 とありのままの私を抱き取ってくださいました。苦しみの涙を止めるすべも、手がかりも何一つ持ち合わせていない私に、阿弥陀様がお救いを全て整えて、今私たちのいのちに「南無阿弥陀仏」というお姿でご一緒くださっています。
読む法話「ご法事とは」 (和水町 玉関組 正元寺 寺添真顕)
コロナが流行りだした頃から、ご法事のお約束をいただく際に「今回の法事、家族しかいませんが、それでも良いですか?」とお尋ねされることがあります。
2か月程前にも同様の事を電話で聞かれましたので、私が「なぜ、そのようなことを心配されるのですか?」と聞くと、「やっぱり少ないより多い方が良いと思うのですが、子ども達が遠方に住んでいて、コロナが心配で呼びきらんとですよ」とのお答えでした。
私は「人数は関係ありません。ご縁に遇われる方が多い方が望ましいですが、少ないからと言って心配する必要もありません。詳しくはご法事の時にお話しします」とお伝えしました。
法事当日にお宅に伺い、お衣に着替えてお経さまを拝読した後に少しばかり仏様のお話をさせてもらいました。
話の冒頭に、「なぜ以前は大勢でご法事を務めていたのでしょうか?」と聞くと、すかさず一番年嵩の方が「人数が多い方があの世に行った人が喜ぶからでしょう?」と言われました。私が「それでは、少なかったら悲しまれますか?」と聞くと、同じ方が「多い方が迫力があるし、やりがいがあるがある」と答えられました。みなさん如何でしょうか?私たちは先に仏様になられた方に、何かしてあげられる力を持ち合わせているのでしょうか?実は逆なのです。先に亡くなられて仏様となられた方が、私の事を心配し、仏様のご縁に呼んでくださっているのです。
それではなぜ、私は心配されなくてはいけないのでしょうか?それは、法律的・道徳的に問題なかったとしても、仏様から見た私の姿が、決して褒められたものではないからです。
それどころか、仏様と真逆の存在なのが私だからです。いつまでたっても自己中心であり、思い通りにならなかったら怒るし、自分の事、周りの事を知っているようにしながら、実は知らないことばかりであると、あげればきりがありません。
ご法事とは、先にお浄土に還られた方を縁として、私が仏様のみ教えを聴かせていただく中で、仏様と比べてどうしようもない私を、絶対に救うと立ち上がり、至りとどいてくださった仏様のご恩を歓ぶ場所でありました。
読む法話「私を決して忘れない」 (宇土市 宇土北組 宝林寺 経智敬)
私が三十、歳をとった分、御門徒のみなさんも同じように歳を取られ、五十代、六十代の方々も今や八十代、九十代となられました。
三十年前は同居のご家庭がほとんどでしたが、最近はご高齢のご夫婦、一人暮らしの方が大半になりました。
歳を重ねてこられると今まで普通にできておられた日常生活にも支障が増え、病気や怪我、今後の話を聞くことがずいぶん多くなりました。
さて長年、お寺にお参りいただくおばあちゃん、ご法座は欠かしたことのないしっかりした方でありましたが年々に物忘れが増え、最近では月命日も忘れられるようになり、いろいろなお約束も出来なくなりました。
毎月の月命日にお参りしますと、後ろにきちんと座られるおばあちゃん。
このおばあちゃんの口からは必ず南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声たからかにお念仏がこぼれます。
お勤めが終わると
「今日は本当にありがとうごさいました」
とお礼をいただきました。その後、おばあちゃんがさみしい顔をしてこんなこと言われました。
「最近はいろんなことを忘れるようになりました、この先忘れものがもっとひどくなるかと思うととても心配でなりません」
とおっしゃられました。
この言葉を聞いた時、
私は、阿弥陀さまでよかったなと思いました。
『正信偈(しょうしんげ)』中に、次のようなおことばがあります。
煩悩障眼雖不見
(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我
(だいひむけんじょうしょうが)
私が忘れても阿弥陀さまは決して私のことを忘れないとはたらいてくださっています。
私もみなさんも歳を重ね、やがては息子の顔も分からない、娘の顔も分からない日がやってきたとしても、私を決して忘れないと人生に寄り添い続けてくださる仏さまが阿弥陀さまなのです。
読む法話「心のお弁当」 (嘉島町 緑陽組 法源寺 松本浩信)
近所の小学校で、先日、運動会がありました。コロナ禍の影響が残る中、半日のプログラムとなりお弁当の時間もありません。
運動会や遠足等の学校行事で、楽しみだったのがお弁当でした。冷めたご飯とおかずなのに、友達と一緒に楽しく食べた思い出が残っているのは、皆さまも同じかと思います。
そしてもう一つ、お弁当には、子どもたちへの思いや願いが込められているのではないでしょうか。
東井義雄(とういよしお:兵庫県出身の浄土真宗の僧侶であり、教育者。1912~1991)さんは、校長在任中のある年、春の遠足の時引率した五年生が、買ってきたお弁当を持ってきていたことを悲しく思い、六年生の修学旅行を前に保護者会を開き、
「忙しいのは、存じております。しかし、子どもたちには大切な修学旅行なのです。いつもより早く起きて、性根を入れてギュッと握ったおにぎりのお弁当を持たせてやってくださいね。」
「そのとき、どんな願いを込めたかを、走り書きでも良いですから、手紙に書いてお弁当に入れてくださいね。」
と、二つのお願いをされました。
修学旅行の昼食の時、お弁当の包みを開けて手紙を見つけ、嬉しくて踊り回っていた子や、涙ぐみながら何度も読み返していた子も居たそうです。
私たちも、阿弥陀さまから「お弁当」をいただいています。それは、お腹がいっぱいになるお弁当ではありません。心がいっぱいになる「心のお弁当」です。そのお弁当にも「南無阿弥陀仏」と、短い手紙が添えられています。
阿弥陀さまは、悩み苦しみを抱えて生きていかなければならない私たちを、何ごとにも惑わされない、大きな安らぎへと至らしめたいと願われました。その願いを心にとどめて忘れることなく、「南無阿弥陀仏」の手紙を何度も読み返していくのです。
読む法話「心の使い方」 (山都町 益東組 教尊寺 大道修)
『会社での雑談での事・・。昔の男の子は皆、自分のナイフを持っていたな~って話になりました。ナイフで使って竹トンボや水鉄砲を作ったり、鉛筆を削ったり、悪戯する道具を作ったり…。
たまには失敗して手を切る事もありますがそうやって遊びながら、道具の使い方を覚えていった様に思います。しかし、今は子供にナイフを持たす人は減りましたね。ナイフは武器と言うイメージが強いです。
武器は人を傷つけます。危険な物は極力持たせたくないと言う親心もあるのでしょうね。ナイフは刃物です。刃物の本質は切る事です。料理で使う包丁も、人をあやめる刀も、手術で使うメスも刃物であり、何かを切るという本質は変わりません。切る対象が変わるだけです。何を切るか?は当人次第ですが、本当はソレを判断できる心を教えてあげる事が、大切な事の様な気がします。人の持つ凶器とは悪意に他なりません。
刃物が人を救う事もあれば、言葉で人を殺す事も出来る。全ての道具は使い方次第です。そして、何より知らなければならないのは、他ならない自分の「心の使い方」かも知れませんね。』(イドの日記より)
私たちの日常生活は常に自分の視座から世界を見る事に終始しています。一人ひとりが自分の思いや考え方にしがみつき、それを相手に押し付けようとします。この「自己主張」がエスカレートすると、言葉や暴力、時にはモノで相手を傷付けます。
仏教では「自己主張」即ち我執に囚われた人間の姿を「凡夫」といいます。
お念仏と出遇い人間の心の在りようや我欲の根深さを見抜かれた親鸞聖人は、「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと…」と『一念多念文意』に示されました。欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもない私たちを、その苦しみから救い取りたいと願われた仏さまが阿弥陀仏です。
阿弥陀仏の願いを聞かせ頂く中に自身の姿に気付かされる人生が開かれます。「心の使い方」を知ることは「心の在りよう」と向き合うということです。阿弥陀仏の願いの中に自分と向き合いながら生きる人生は、我執、我欲の虚しいだけの人生ではないのです。
読む法話「お聴聞に導かれて」 (熊本市 飽田組 浄行寺 盛 忍)
佐賀県のお寺でお聞かせ頂きましたお話を紹介します。
お寺によくお参りなさるおばあちゃんがおりました。近しい家族は誰もいない、一人暮らしです。
ある宗教に熱心な近所の方が、毎日お仲間連れてきて、
「一人暮らしで哀れな身にならんないかんというのも間違うた宗教を信仰したからや。間違うた仏さまみたいなものを家に置いとるから、こういう事になる。私らの仲間に入らんか、そうしたら話し相手にもなってやる、身の周りの世話もしてやる」
と誘われます。
おばあちゃんは黙って聞くばかりで、時にはナンマンダブとお念仏が出ます。
とうとう、これ程親切に言うてやってるのに分からんのかとなりまして、
「そんなにお念仏称えておって、ご利益でもあるのか」
と詰め寄られたそうです。
その時、おばあちゃん言うたそうです。
「ハイハイございますとも、これ程毎日あれこれとおっしゃってくださいますけれども、もう迷う必要がないんですね。これが一番のご利益です」
世間のものの見方は、役に立つか立たないか、損か得かという「有用性」が気になります。
たとえひたすら念仏していても、その功徳によって何かを手に入れようとするなら、阿弥陀如来とは私の都合の請求先という事になります。
西本願寺の即如前門主は、蓮如上人五百回遠忌法要の際の法話の中で、
浄土真宗の信心は阿弥陀如来からたまわる信心、
南無阿弥陀仏が私に至り届くことであります。
苦しいから助けていただきたいとお願いすることでもなく、
念仏を称えた功徳によって救われることでもなく、
反対に阿弥陀如来が既に、
私の喜びも悲しみも、
そして煩悩のすべてを見抜いて常に喚んでいてくださることなのです。
とお示しくださいました。
生まれ難い人間に生まれさせていただきながら、ただ自分の欲求を満たすためだけに費やす一生はむなしいものです。むなしく終わることのない人生とはいかなるものか、聴聞させていただきましょう。