法話集

法話集

読む法話「帰る場所」 (氷川町 種山組 西福寺 三原哲信)

2023/02/01 09:00

 浄土真宗でもっとも拠り所としている『仏説無量寿経』というお経さまに、

  「われまさに修行して、仏国を摂取して(中略)もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまえ」

というご文があります。阿弥陀さまの前身、法蔵菩薩さまは私の生死の苦悩を根本から解決するために、お浄土をこしらえようと仰せになります。私の苦悩の解決のために、私が欲しがるものを与えたり願いを叶えようではなく、私のいのちの帰る居場所をこしらえようとお誓い下さいました。

 さて、私の父である拙寺の前住職が三十五歳でお浄土へ帰り、三十六年が経ちます。亡くなる前日、父は自坊に一時間ほど帰宅することができました。帰宅とは言うものの身軽に帰ることは叶いません。ベッドからストレッチャー、そのまま救急車に乗せて頂き、お医者さまと看護師さんが一人ずつついての帰宅でした。お寺では家族や総代さん、仏婦の皆さまが待ち受けます。救急車が境内につき、ストレッチャーのまま本堂からお内仏に至りました。食事はできませんが、お茶でも飲みながら、父も口を湿らせながら短い言葉をひと言ふた言つむぎます。

 総代さんが間を取るように気を遣い、早く良くなって帰って来てくださいと言葉をかけますが、寝たままに楽飲みを使ってお茶を飲むような父が元気になって帰ってくる姿は、幼い私にも想像することは出来ませんでした。

 しばらくの時間を過ごさせて頂きましたが、お医者さまの「もうお時間です」という声を合図にストレッチャーが上げられます。本堂に至り如来さまの前を通る時、如来さまの方を向いて小さい声ですがはっきりした口調で「龍水山西福寺、帰ってこれるとは思わなかった、ありがたかった。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ」と、お念仏をよろこんでお寺を出てゆき、次の日には三十五歳を一期としてお浄土へ帰らせて頂きました。

 三十五歳ですべてを手ばなし、いのちを終えてゆかねばならないという事は、どれだけ想像しても届きません。しかしもしかして、「こんなはずじゃなかった、どうして私だけだ」という事かも知れません。しかし父は最後に「ありがたかった」とお礼を申しました。それは、尊い仏さまに出あうことのできた、ありがたい人生だった。名残惜しくも、これからあなたのところへ参らせて頂きますという事だったと感じています。

 父のありがたかったという姿勢を通して、如来さまのお心、それは「あなたの生死の苦を抜く」というお心に出あわせて頂いたことを、よろこんでいます。

新年のご挨拶  熊本別院輪番・熊本教区教務所長 大辻子順紀

2023/01/01 09:00
慈光迎春
 お念仏とともに新年を迎えられましたこと、皆さまとご一緒に慶び感謝申しあげたく存じます。本年も何卒宜しくお願いいたします。
 さて、本年3月29日より親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要がご本山においてお勤まりになります。コロナ禍中のためにさまざまな制約がともなうなかでのご法要は大変残念ではございますが、50年に一度のご勝縁にぜひともお遇いさせていただき、「親鸞聖人の御誕生がなければお念仏に出遇うことなく、わが生涯はむなしく過ぎていったに違いない。」と、御誕生そして立教開宗に皆さまとともに感謝し、お念仏申しあげたいと存じます。さらに熊本別院並びに熊本教区の諸事業を進めるべく、皆さまのご理解を賜り、微力ながら尽力いたす所存でございます。
 どうやら本年もコロナと共存しながらの一年となりそうです。4年目となり、だいぶ慣れてきたとはいえ緊張感をもって驕ることなく、職員とともに精進してまいりますので、皆さまには引き続き、ご教導たまわりますようお願い申しあげ新年のご挨拶とさせていただきます。
合掌



 
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要についての詳細はこちらをご覧ください。

読む法話「念仏の法に遇うとは (立派に生きたいけど)」 (八代市 八代組 願行寺 鹿本地上)

2022/12/01 09:00
 「立派な生活とは、感謝と反省を忘れず日々努力し向上していくこと」と言えば、誰しも頷きますし、確かにその通りです。
 「正しい生き方に努めましょう。そのためには感謝を忘れません。常にわが身を振り返り反省します。愚痴や不平を言いません。いつも喜びをもって暮らします。」確かにその通りです。
 しかしこの立派で正しい生活への希望を根底から乱すものがあります。それが私の身に満ちている煩悩です。いわゆる、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴です。
 人生が思うように行っている時は、貪欲という煩悩が働きだし感謝と反省の心を見失わせるのです。
 貪欲ですから、満足することがありません。もっともっと欲は膨らむばかりです。名誉、地位、財産、寿命、どれをとってみても「これで満足です。これ以上はいりません」とはならないのです。
 こんな時は多くの人が集まってきて、その人を褒めそやして追従しますが、「思いあがるな」と注意する人の言葉は耳に入りません。それで益々自惚れます。
 仕事が順調に進み、多額の財産を得て、高い地位につき、名が世に知られるようになり、周囲の人から「先生」と呼ばれるようになると、何か自分が偉くなったように思いあがります。
 反対に逆境になると、瞋恚という煩悩が働き出して平常な心を失わせます。病気になったり、年老いたり、身内を亡くしたり、仕事が上手くいかなくなったりすると、些細なことで腹を立て、他者が順調に暮らしているのを見て、嫉(そね)み、妬(ねた)み、羨(うらや)みといった思いに縛られ、ますます心は暗くなります。
 なぜ、お互いは順境に酔い、逆境に溺れるのでしょうか。
それは、お互いを支えている心のものさしが、愚痴という煩悩だからです。
 愚痴とは、自分中心(自分達中心)の心で、都合よくなれば浮き上がり、都合が悪くなれば沈み込んでいきます。愚痴は無明(むみょう)ともいわれます。煩悩が光を塞いでいて暗いのです。暗いので迷いから抜け出すことができません。
 念仏の法に遇うということは、このような煩悩の身を喚(よ)びさまし、そのような身をその身のまま抱きとって煩悩の身を解放し、生死(しょうじ)の海に沈みいく身のまま真実の浄土に渡してくださる、真実の智慧と慈悲のはたらきに思いをめぐらせていただく事なのでした。

読む法話「てまえどり」 (益城町 益北組 浄恩寺 玉春勇樹)

2022/11/01 09:00
 昼食を買おうとコンビニエンスストアに立ち寄ったときのこと。
 おにぎりの棚の前に立ってどの具にしようか選びあぐねていると、「てまえどり」という見なれない単語が視界に入った。
 見渡してみると、どの食品の棚にも「『てまえどり』にご協力ください」という趣旨の啓発POP(売り場に設置されている掲示物のこと)が掲示されている。
 POPによれば「てまえどり」とは、「買ってすぐに食べるのであれば賞味期限が迫っている手前の商品を選びましょう」ということらしい。

 まだ食べられる食品を捨ててしまう食品ロスは日本国内で年間に600万トンに達するとされる。
 国民一人あたりでいえば年間で47Kg、一日で茶碗一杯分を捨てていることになる。
 食品ロスは倫理的な問題にとどまらず、資源やエネルギーの問題でもあり、ひいては地球全体の環境問題につながる課題である。
 食品ロスを削減するための工夫の一つが「てまえどり」、ということだ。

 そういえば、私には昔からとある癖がある。
 スーパーマーケットで牛乳を買おうとするとき、棚の奥にある牛乳をとりたい、と考える癖だ。
 牛乳だけではなく、おにぎりもそうだ。自分の都合だけ考えるならば、新しいほうがいいに決まっている。
 食品ロスだとか資源やエネルギーの問題だとかは自分に関係がないと頬かむりをして、自分の都合だけ考えているほうが楽なのだ。

 一方で、自分の都合だけ考えていると結局は周りを傷つけ自分も傷つくことになる、とお念仏をいただく私たちは知っている。
 あらゆる命の安らぎが自らの安らぎであるとする阿弥陀仏のありようを聞いていく中に、自分さえよければいいという考えを超えたところにこそ本当の安らぎがあることを知らされるからだ。

 自分さえよければいいという心に縛られながら生きるのか、
 自分の都合を超えて地球全体に思いを巡らしながら生きるのか。
 「てまえどり」のPOPを前にして、いよいよ昼食のおにぎりを選びあぐねることになった。

読む法話「光の中で生きる」 (上天草市 天草上組 観乗寺 森島淳英)

2022/10/01 09:00

 先日、ある御門徒が亡くなったのですが、私は葬儀のあと火葬場へもご一緒することとなりました。ご遺体を火葬し始めてから待合室で九十分ほど待つことになるのですが、そのとき喪主の奥さんが突然「私は今しあわせです」という言葉を口にされたのです。聞かせていただくと亡くなったご主人のことをお話しくださいました。
 ご主人は若い頃から、家庭のことは奥さんに任せっきりで、仕事に打ち込んだ人だったようです。子どもが小さかったとき、学校の行事にもほとんど参加しなかったために、「もう少し、家族を大事にして」と少し、歯痒い気持ちにもなったこともあったそうです。また海の仕事をされていたので、一緒に船に乗って仕事を手伝ったこともありましたが、「あれを持ってこい」「これをしろ」と海の上で大きな声で命令され、カッと頭に血がのぼって、この人と離婚したいと思ったりもしたそうです。
 そんなご主人が七十歳を過ぎてから、入退院を繰り返すようになったそうです。そして、世の中がコロナ禍になり、病院も面会を制限をした為、いったん入院してしまうと面会も出来なくなりました。そんな入院中、突然病院から「今すぐ、来てください」と電話がかかってきて駆けつけると、目も開けず返事もしてくれない姿ではあったけれども、まだ息のあるご主人に会うことができたそうです。そして、亡くなるまで一時間ほど手を握りながら、「ありがとう」と最後にお礼を言うことができたとのこと。「主人が一生懸命働いてくれたからこそ、今の家族がある。その事に気づき、最後にお礼を言うことができました。私は今、しあわせです」とお話しくださいました。
 阿弥陀さまから見れば、私たちはいつも煩悩のメガネをかけて生きているそうです。本当は素晴らしい世界に住み、生かされて生きているにもかかわらず、そのことになかなか気づくことができません。本当に大切なものにはなかなか気づかないのに、「あれは好き、これは嫌い」と煩悩に振り回されて文句を言って生きているような私です。
 「しかし、そのようなあなたこそを決して見捨てることなく、阿弥陀さまは月の光のようにあなたを照らし、はたらき続けてくださっています」と親鸞聖人はお教えくださいました。
 一つ一つを細かく見ていけば色んな不平や不満が出てくるのかもしれませんが、最後に手を握ってお礼を言えたことをしあわせだと感じ、「一緒にいる時、私は主人の良さの半分も解りませんでした」とお話しくださる御門徒のお姿に、光り輝くものを感じた尊いご縁でありました。

読む法話「阿弥陀さまのまなざし」 (菊池市 菊池組 照嚴寺 髙田聡信)

2022/09/09 09:00

 九月上旬までの時季を初秋といい、また、晩夏ともいいます。真夏のように厳しい残暑がしばらく続くことから晩夏といわれるのでしょう。
 夏の終わり頃になると、小学一年生の息子と一緒にすることがあります。それは飼育したカブトムシやクワガタのお墓を造ることです。夏が終わり、いのち終わった昆虫のお墓を造るのです。庭の土に埋めて、その上に小石を載せて、その周りに小石を敷き詰めて枠を造り、最後に合掌してお念仏を称えます。幼いころから少しでもいのちの大切さと重さを感じてもらうためです。

 松本梶丸氏の『生命の見える時―一期一会』(中日新聞本社)に三歳の女の子の「つぶやき」が紹介されていました。
「毛虫さん、信号は赤ですよ。あぶないですよ。」
この言葉に対して、松本氏は
「この女の子には、毛虫に対していささかの差別も嫌悪感もない。生命(いのち)そのものを見ている。」

と述べておられます。「毛虫に信号の色がわかるものか」と見てしまえば、もはやいのちの共感は生まれませんが、残念ながら私のまなざしはそのような心であらゆるものを見ているのではないでしょうか。
 お釈迦さまはその心を「分別心(ふんべつしん)」といわれ、その心は絶えず自己中心から起こっていると教えてくださいます。

 また、暑い時季になると私はよく庭の草刈りをしますが、その中で天敵が一つあります。それがドクダミです。根が張っているので、刈り取っても数日経てばすぐに生えてきます。しかし、このドクダミ、都会では「山野草」として重宝されているのです。面白いと思いますね。一方では雑草扱い、所変われば貴重品扱いですから。
 そのように「これは役に立つのか、役に立たないのか」と世の中を見ようとする私がいます。そしてその心は留まることを知らず、いつしか人のいのちまで「役に立つのか、役に立たないのか」と見かねないのが私のまなざしではないでしょうか。
 一方、
阿弥陀さまのまなざしには、いのちに「役に立つ」も「役に立たない」もありません。おひとりおひとりを絶えず「中心」とご覧になられるのが阿弥陀さまのおこころです。これを「お慈悲」といいます。そのお慈悲いっぱいでもって、この私をいつも呼び続けてくださるのが「南無阿弥陀仏」です。そのお慈悲の中で私たちはお育てをいただきながら歩んでいくのであります。