法話集

法話集

読む法話 「私を励まし育て続けるお念仏」 (上天草市 観乗寺 藤田慶英)

2022/03/01 09:00

「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 

          回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」


 皆さんこんにちは。私は天草の藤田慶英と申します。私は5年前に大分の中津という所から天草の今のお寺にやってきました。いわゆる婿養子です。

 私は元々歌を聴いたり歌ったりするのが好きなのですが、養子に来てからというもの、その歌の趣味がどんどん古くなっており、今では並木路子さんの「りんごの唄」まで聴くようになりました。そこで、最近気づいたのですが、昭和の歌謡曲や演歌というのは今どきの歌と違って親子の歌や夫婦の歌が多いんですね。そんな昭和の歌の中に私の様な婿養子の心に刺さる歌というのがあります。さだまさしさんてご存じですよね。この方の「秋桜(こすもす)」という歌が最近はすごく心に残るんです。特に二番の歌詞がとってもいいんです。

  あれこれと思い出をたどったら

  いつの日もひとりではなかったと

  今さらながらわがままな私に

  くちびるかんでいます

  明日への荷造りに手を借りて

  しばらくは楽し気にいたけれど

  とつぜん涙こぼし元気でと

  何度も何度も繰り返す母

  ありがとうの言葉をかみしめながら

  生きてみます私なりに

  こんな小春日和の穏やかな日は

  もう少しあなたの子どもでいさせてください

 私はこの歌詞の中で何でお母さんが突然涙をこぼして「元気で」という言葉を残したのかとても気になりました。「夫婦仲良く幸せに暮らしなさいね」とか「お義父さんお義母さんを大事にしなさいね」とか色々あったはずじゃないかと思うんです。ところがこのお母さんは「元気で」という言葉を絞り出すのが精一杯だった。もちろん胸いっぱいだったということもあるでしょう。しかし、私はこういうことなんじゃないかなと推測するんです。

 結婚というのは、通常幸せなことです。だから「おめでとう」と笑顔で見送ってあげたいのは山々なんです。ところが、母だけはわかっているんです。新たな家族とともに幸せに過ごせないわけではないのですが、故郷・親元を離れて見知らぬ土地に一人で行くということは思った以上にさみしいものです。どんなに周りによくしてもらっても何となく孤独感を感じるときもあるのです。母だけはそれがよくわかっている。そんな酸いも甘いも経験した母だからこそ「元気で」という言葉に様々な思いを込めて娘に伝えたのではないでしょうか。そして娘さんはこの言葉に何度も励まされ救われたことではないのかと。

 阿弥陀という仏さまは、私たちが自ら煩悩を振り払うことのできない愚かな身の上であることを見通して、この者たちこそ救わなければならないと、お立ちあがりくださいました。そして、南無阿弥陀仏というお念仏に自らの果てしなく厳しい修行で積んだお徳をあらわし私たちに届いてくださっておるのであります。私たちはうれしいときも辛いときもこんな私たちのためにご苦労くださった阿弥陀さまのお心に励まされ、救われていくのであります。

 本日はようこそのお参りでございました。

読む法話 「確かな大丈夫」 (熊本市 両嚴寺 郡浦智明)

2022/02/13 07:00

 「大丈夫」という言葉で、安心できる事もありますが、気休めにもならない事もあります。
 私事ですが一昨年に、痔の手術で生涯初めての入院を経験しました。振り返ると、痛みに苦しむ私に「大丈夫ですか。」と声をかけ痛みの原因を診てくださり、手術、治療をし、「大丈夫ですよ。」と声をかけてくださった、担当医の先生に支えられた入院生活でした。痔という症状は昨日今日であらわれるわけではなく、結構な時間をかけてあらわれる症状だそうです。私の場合、その症状を、手術しなければいけないほど深刻になるまで長く放っておいたという事になります。病院にお世話になる数か月前には、すでに違和感があり自覚症状はありましたが、大ごとに思いたくない私は「大丈夫だろう。大丈夫なはずだ。」と、根拠のない思いで誤魔化しながら放っておいたのです。その結果、自分で抱えきれない痛みに苦しみ、病院へ駆け込む事になったのです。
 担当医の先生と私の「大丈夫」はあきらかに違います。私は、痛みの患部を診察することも、その症状の詳細も知ることも出来ません。治癒のためにどうすればいいかも分かりません。それに対して、専門家である先生はその患部を診察し、どのような症状か詳細まで知ることができます。その上で、痛みをとるために、または症状を改善するために、どのようにすればいいかを見通し、治療する事ができます。結果的に私の「大丈夫」は不確かなもので気休めにもなりませんでしたが、先生の「大丈夫」は、どこか確かさがあり安心させる響きがありました。
 親鸞聖人が仰ぎ讃えられた七高僧のお一人である道綽禅師は、『安楽集』という書物で仏法を聴くものの心得について述べられています。その中に「愈病の想をなせ。」というお言葉があります。この身の病を治癒していく最高の薬として、仏法をいただきなさい、という意味です。ここでの病とは、煩悩具足の凡夫(煩悩に振り回され、苦しみ続けていくしかないもの)といわれるすがたであり、私には知ることの出来ない、仏さまの眼差しによってあきらかになる私のすがたです。そのすがたを哀れ悲しみ「あなたを見捨てない。必ず救う。」と誓われ、誓いのままに「南無阿弥陀仏」となって私にはたらき、お救いくださる仏法を、親鸞聖人はあきらかにされ伝えてくださいました。
 放っておいたら煩悩に振り回され、苦しみ続けていくしかない愚かで危うい私に、苦しみから離れる確かな道を示し、「大丈夫」とはたらいてくださる仏さまのおこころを聞かせていただくのがお聴聞です。煩悩具足の凡夫と知らされ、「あなたを見捨てない。必ず救う。」という確かな「大丈夫」に支えられ導かれていく大事な仏縁として、お念仏申させていただきたいものです。

新年のご挨拶  熊本教区教務所長・本願寺熊本別院輪番 宮川善裕

2022/01/01 09:08
 新年あけましておめでとうございます。
 皆様のおかげで今年も無事新しい年を迎える事が出来ました。本年も多くのご縁をいただきその一つ一つの尊いご縁を大切に精進させていただきたいと存じます。皆様には熊本教区・熊本別院をいつも支えていただき深く感謝いたしております。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
 熊本に於いては、平成28年4月に発生した国内最大規模の熊本地震から5年目を迎えていますが、その後は新型コロナウィルス感染症の発生により県内外を取り巻く環境に非常に深刻な影響を与えています。その中、令和2年7月豪雨が発生、球磨川の氾濫とともに人吉市を中心に甚大な被害が生じるなど、思いもよらぬ災害が多発し多くの命が失われるなど、自然の猛威に対する人間の無力さを思い知らされた事でもありました。また、コロナ禍にもより様々な社会問題が複雑化した現代社会では、いのちを軽視する事件が相次ぐなど、苦しみや悲しみに打ちひしがれそうな日々を過ごされる人が大勢おられます。今まさに何を指針としてどう行動すべきかが私たち一人一人に問われているように思います。
 専如ご門主様は、新型コロナウィルス感染症の拡大によって、各寺院における法要・行事等を執行する事が難しい中、「仏教や浄土真宗のみ教えを伝えるお寺が人々の拠り所となるよう社会の中で出来る事を実践してまいりましょう」とご教示くださいました。また法統が継承された折の「ご消息」においては「現代の苦悩をともに背負い、御同朋の社会をめざし、みなで英知を結集して取り組んでいただきたい」とお示しいただいています。
 現在、寺院を取り巻く状況は日増しに厳しくなり、様々な課題が生じていますが、お寺を中心に人と人とが寄り添い、心豊かに生きる事の出来る社会の実現を目指すためにも、私たちの生きる方向を見据え、新たな人と人との繋がりを築いていくための一歩をふみだしていただきたいと願うことであります。今後とも広く社会の生活感情をもって、周囲の人々へ働きかける念仏者として、実践運動推進のため、ご協力を賜りたくよろしくお願い申し上げます。
 本年もめまぐるしい変化が予想されますが、その中で変わらぬみ仏のお法をともによろこばせていただきたいと思います。 
                                                                                 
                                                      合掌

読む法話 「待ってるからね」 (八代市 崇光寺 萼弘誓)

2021/12/05 00:16
 「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にて かならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」 『親鸞聖人御消息』

 このご文は、親鸞聖人が関東から京都に帰られて往生されるまで、関東各地のご門弟に宛てられたお手紙(御消息)の中にあるお言葉です。現代語に訳しますと「わたしは今はもうすっかり年老いてしまい、きっとあなたより先に往生するでしょうから、浄土で必ずあなたをお待ちしております。」という内容のお言葉です。このお手紙を受け取られた方にとって、待っていて下さる方がいらっしゃるということが、その後の人生のとても大きな励みになられたことと思います。  昨年より続くコロナ禍の今、心の病をお持ちの方の数が以前に比べて大変多くなっているそうです。先日テレビの放送で、インタビューに答える女性の方がいらっしゃいました。その方は 30 代で、忙しく仕事をされていましたが、ある日突然身体の調子が悪くなり、眠れなくなり、病院に行きますと心の病気と診断されたそうです。すぐに職場に相談し長期休暇をもらい、治療に専念する 日々を過ごされました。現在はもうすっかり身体の調子も良くなり、仕事に復帰されていますが、 療養中、職場の同僚の方たちから「待ってるからね、ゆっくり治してね」と言われた言葉が大変嬉しかったと話されていました。「待ってるからね」の一言から少し前向きな気持ちになり、「私が帰る場所はここだー!」と調子が良くなるきっかけとなられたそうです。もし、同僚の方達から「待ってるからね」の言葉がなかったら、職場はただの「行き先」でしかなく、行くのがつらいままだったのかもしれません。待っていて下さる方がいらっしゃることで、職場が「帰れる場所」となり、ご自身にとっての励みになられたのでしょう。
 私たちのこのいのちは、死んで終わりのいのちではなく、阿弥陀如来のお浄土に生まれていく「いのち」であるとお聞かせいただいています。今すでにお浄土に参られ、仏となられている先人の方々が待っていてくださっている世界がご用意されています。ただの「行き先」としてのお浄土ではなく、「帰れる場所」としてのお浄土。待っていて下さる世界を約束された人生は、それ以前の人生と全く別物になります。あとに残されるご門弟の方を想い、「必ず待っていますからね」と伝えてくださった親鸞聖人のお言葉は、現代に生きる私にとっても励みとなり、心強く響いて下さっています。
 「お浄土で待ってるからね」きっとその言葉を受け取られた方のその後の人生は、悲しいだけでは終わらせない、寂しいだけでは終わらせない、阿弥陀さまのお慈悲の中に生き抜いていく人生が開かれていくことでしょう。

読む法話 「目印」 (八代市 大法寺 大松龍昭)

2021/11/16 14:03
 あるご門徒のお宅へお参りに向かっていた時のことです。近くには直線の道路があり、 その途中の T 字路を左折すればその先にお宅があるのですが、その日私はそのT字路を 通り過ぎてしまいました。?とは思いつつも、慌てずに U ターンしてまたその直線を走 りましたが、私はまたもその T 字路を通りすぎてしまいました。これにはさすがに不安 になりましたが、また U ターンして三度目はゆっくりと T 字路をよく確認しながら走り ました。ところが、また私は T 字路を通りすぎてしまったのです。一体どういうことか と車を止めてよくよく確認したところ、実はその T 字路の角には古い小屋が建っていた のですが、それが解体されて更地になっていたのです。なるほどと思いました。私は道順 から何から自分が覚えていると思っていたのですが、そうではなくてその小屋が目印とな って、私はただそれに導かれていたに過ぎなかったのです。
 そう気づいたときに、まさに私たちの人生もその通りだろうと思いました。歳を重ねて いきますと、私たちは今の自分は己の努力と苦労によって築き上げてきたんだと思ってい るところがあると思います。それも嘘ではありません。しかし私たちは人生の局面局面で、 目印となる存在に幾度も出会い、それに導かれ導かれして今日の自分がある、それが事実 ではないでしょうか。その存在とは、もしかすると亡くなったあの方かもしれません。ま だ隣にいてくれているその方しれません。またそれは身内とは限りません。そしてそれは 1 人でもないはずです。その存在に気づくということは、私の命をより豊かなものに変えな していくことでしょう。
 そしていま、私たちはお聴聞の現場にいるわけです。しかしそれもきっと私のしでかし た事ではなくて、何某かの目印や道標に導かれて、いまこのように仏縁に恵まれているの ではないでしょうか。ぜひ合わせてそのことも味わっておきたいと思うことであります。

布教団第一支部 紙面布教大会②

2021/11/09 12:00

 熊本教区布教団第一支部では毎年1月31日と5月31日に本願寺熊本別院にて布教大会を開催していますが、新型コロナのために2020年1月を最後に布教大会が開催できていない状態です。そこでこのたび若手布教使の研鑽もかねて文章による布教大会を行うことといたしました。
 若手布教使を中心に複数名が法話原稿を提出し、のべ10時間以上にわたるオンライン検討会を経て、8月にまずは3名の法話を掲載させたいただきましたが、今回11月は2名の法話を掲載させていただきます。
 今回の2名の法話は、文書にしたものを11月上旬に教区報等とともに教区内寺院へ郵送させていただいております。



「願いに照らされる<わたし>」

浄行寺 盛 智照

 『無量寿経』のなかで阿弥陀仏は、すべての生きとし生けるものの悩み・苦しみが取り除かれない限り決して覚りへは至らないと誓われています。そして、同じ『無量寿経』で阿弥陀仏はすでに覚られているということが説かれています。ということは、阿弥陀仏の願いは理屈の上では成就されたことになっています。
 ここで理屈の上でと申し上げたのは、阿弥陀仏の願いは私たち人間の営みによってのみ具体化されるからです。阿弥陀仏の願いは、常に自分以外の他者に寄り添おうとする利他の願いです。対してこの私が願ってしまうのは自分にとっての幸せばかりです。しかしそのような自分の殻に閉じこもったままでは、阿弥陀仏の大悲の願いに参入することはできません。と、理屈をこねてみましたが、やはりその願いに背を向けた生き方を選んでしまうのが私なのだと、そう思わされた出来事がありました。
 私は数年前から福岡県の宗門校で非常勤講師をさせて頂いております。講義や課外活動を通して若い学生たちと正面から向き合い、対話できる時間は私にとってかけがえのない時間でした。そのような環境がコロナの流行で一変します。すべての講義が遠隔授業となったのです。福岡に行かずに済むのでかえって楽なのでは、という淡い期待はたちまちのうちに吹っ飛び、毎日が授業準備とメール対応に追われ、最初の一ヶ月間は心休まる時間がありませんでした。気づけば講義の時間が何よりも苦痛な時間となっていました。一方、学校業務が「ステイホーム」になったおかげで家族との時間が増え、子どもたちと過ごす時間が何よりの癒しとなってくれていました。
 そんな中、学生の1人が突然講義に顔を出さなくなりました。何度かメールを送ってみましたが返信はありません。毎回必ず出席してくれていた学生だったので気にはなりましたが、私はそこまで事態を深刻には捉えていませんでした。「遠隔授業に飽きたんだろう」くらいに考え、「期末レポートさえ出してくれれば大丈夫かな」と楽観的でした。そしてそう捉えるにいたった最大の原因は、遠隔授業を最小限の労力で乗り切り、なるべくプライベートな時間を確保したいと強く思うようになっていた私のエゴによるものでした。
 後に、学生の欠席の原因が精神的な病によるものだったことを同僚の先生から教えていただきました。今になって思えば、同じクラスの仲の良い学生に尋ねたり、所属する学科の先生や学校に相談するなど、いくらでも対応策はありました。いいえ“今になって思えば”なんて真っ赤なうそです。本当はとっくに気づいていました。でもその頃の自分の殻の中だけでの幸せを求める生き方をやめられませんでした。
 後日その学生と一度だけ直接話す機会がありましたが、「ごめんなさい」の一言は言いませんでした。その一言で終わらせた気になるのはこれまた私のエゴでしょう。この学生のためにも、この出来事を糧とし、誰ひとり取り残さない授業運営を心がけていきたいと思います。
 親鸞聖人はこの現実において念仏者が得る利益の一つに「常行大悲」を挙げておられます。これは念仏に出遇った者が「常に大悲を行ずる」存在にならせていただくという意味です。換言すれば、“阿弥陀仏の願いを生きる”人生を歩ませていただく、ということになります。
 ただし、われわれは凡夫です。凡夫とは、だれかのために行動したくてもできないから凡夫なのではなく、わたしの生き方がだれかを傷つけたり、粗末に扱っていたとしても、そのことに気づくことさえできないがために凡夫なのです。そのような私たちが“阿弥陀仏の願いを生きる”ということは、常に真実に照らして <わたし>を省みる視座をいただくということです。 
 わたしの愚かさ、あさましさをすべて見抜いた上で、それでもなお阿弥陀仏からわたしに向けられた願いがあることを有難く思います。自己中心的にしか生きられないわたしが、阿弥陀仏の願いに出遇わせていただくことで、不完全ながらもその願いに報いる生き方がはじまります。そのような願いに出遇えたことに歓喜し、だからこそ願いに背く形でしかその願いに出遇えないことに慚愧し、これからもともに念仏の大道を歩ませていただきましょう。



「光を聞く」

長寶寺 藤川 顕彰

 昨今のコロナ禍で人との関りが少なくなり、改めて教えられたことがあります。心の奥底から感情をさらけ出し、自分自身や自分と関わってくださるものを知ることのできる場所が我々には必要ではないかということです。
 昨年4月末、ある20代の方から相談を受けました。その内容は以下の通りです。
 「最近尊敬する先輩が突然亡くなりました。私にとって人生の指針となるほどの先輩でした。身近な人が亡くなった経験がはじめてで、とても辛いです。他の親しい人達もいつかは亡くなるのかと思うと、その前に自分が先に死んでしまったほうがましとさえ思います。死への恐怖で夜電気を消して眠ることもできません。」
 青年は、自粛生活の中一人で考える時間が多く、苦しみがあふれ出て、誰に言いようもなく私にお話しされたとのことでした。
 この相談内容は、多くの方々が同じような経験をし、感じておられる苦悩だと思います。そして「仕方がない」「忘れよう」等の心の蓋をして、何とか気持ちを保とうとしておられる方も多いのではないでしょうか。私も同じような思いをもったことがあります。しかし、私には亡くなられた悲しみだけではなく南無阿弥陀仏の「教え」にあえて良かったと力いただくご縁がありますのでそのことをお話しさせていただきました。
 その「教え」の内容を具体的にいうと、まずは死んで終わらない「いのち」ということです。この青年の上で言えば、亡くなられた先輩は、これまで青年の大きな支えであったと思います。では亡くなられた後は無意味な存在かといえばそうでないということです。肉体は朽ち果ててもいのちの触れ合いは終わらないということです。
 次がその終わらない「いのち」の正体です。教えでは、亡くなったすべてのいのちを「仏さま」になられたとみます。仏さまとは如何なる存在かは、色々な見方がありますが、「導師」(導き手)という意味がわたしにとって一番の救いになっています。青年にとって先輩のいのちは青年を手を合わせる身へと導く存在になられたのです。さらに言うなら、教えの上ではすべてのいのちが仏さまになるとみるのですから、私も仏さまになれるのです。尊敬する先輩と、仏さま(導き手)という同じ立ち位置に立てるというのは、亡くなられた悲しみは変わらないですが、ちょっと嬉しいのではないでしょうか。以上のようなことを青年と一緒に確認させていただきました。
 先日その青年に今回この内容を紹介していいか尋ねました。その時、
 「いいですよ。おかげさまで前向きになれて、当時私が何を話したかさえ忘れてしまいましたけど、私の経験がお役に立てるのならうれしいです。」
 と、微笑みながらおっしゃいました。仏さまとなられた先輩を近くに感じながら力強く日常を送っておられるようです。
 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の御言葉の中に、「聞光力」(光を聞く力)という言葉があります。本来「光」は、照らし・照らされるものであって、聞くものではありません。では、どういった意味でこの「聞光」をうけとらせていただけばよいかというと、ここで大切なのは光とは何かということです。光とは「教え」であります。つまり、「聞光力」とは「教えがきこえてくるところの力」ということで、換言すれば教えは、わたしの、今回で言えば青年の闇を照らす光であり力となるということです。
 お寺にお参りすると、阿弥陀さまを仰ぎよろこんでいらっしゃる方を目にします。もちろん仰ぐことは尊いことです。ただ、忘れてはならないのは、その仰がせていただいている阿弥陀さまには目的があるということです。「あなたも苦しいね」という単なる哀れみだけではなく、必ずすべてのいのち(私)を仏にするという目的をもっておられます。お寺で「教えを聞く」ということは、人生を歩むうえで常に阿弥陀さまが私の力になると聞こえてくるのです。そういった意味で、教えを人生の闇を照らす「光」と親鸞聖人は仰いでいかれたのであります。
 「浄土真宗は聴聞に尽きる」という言葉の通り、念仏者にとって、阿弥陀さまのみ教えを聞くことは日常の要であり、これまでお寺の本堂や家庭のお仏壇の前でお聴聞のご縁が営まれてきました。しかし現在、インターネットの出現に昨今のコロナ禍が拍車をかけて、場所を問わずに画面上でお聴聞できるご縁が増えています。このことはより多くの機会で教えに触れることが出来る反面、場所としてのお寺やお仏壇の意義、お聴聞の意義が問われているように感じます。私にとって青年とのご縁は、青年のように自分をさらけだし見つめることのできる場所がご自宅の御仏壇の前であり、お寺であることを改めて考えさせられた出来事でした。