法話集
布教団第一支部 紙面布教大会②
熊本教区布教団第一支部では毎年1月31日と5月31日に本願寺熊本別院にて布教大会を開催していますが、新型コロナのために2020年1月を最後に布教大会が開催できていない状態です。そこでこのたび若手布教使の研鑽もかねて文章による布教大会を行うことといたしました。
若手布教使を中心に複数名が法話原稿を提出し、のべ10時間以上にわたるオンライン検討会を経て、8月にまずは3名の法話を掲載させたいただきましたが、今回11月は2名の法話を掲載させていただきます。
今回の2名の法話は、文書にしたものを11月上旬に教区報等とともに教区内寺院へ郵送させていただいております。
「願いに照らされる<わたし>」
浄行寺 盛 智照
『無量寿経』のなかで阿弥陀仏は、すべての生きとし生けるものの悩み・苦しみが取り除かれない限り決して覚りへは至らないと誓われています。そして、同じ『無量寿経』で阿弥陀仏はすでに覚られているということが説かれています。ということは、阿弥陀仏の願いは理屈の上では成就されたことになっています。
ここで理屈の上でと申し上げたのは、阿弥陀仏の願いは私たち人間の営みによってのみ具体化されるからです。阿弥陀仏の願いは、常に自分以外の他者に寄り添おうとする利他の願いです。対してこの私が願ってしまうのは自分にとっての幸せばかりです。しかしそのような自分の殻に閉じこもったままでは、阿弥陀仏の大悲の願いに参入することはできません。と、理屈をこねてみましたが、やはりその願いに背を向けた生き方を選んでしまうのが私なのだと、そう思わされた出来事がありました。
私は数年前から福岡県の宗門校で非常勤講師をさせて頂いております。講義や課外活動を通して若い学生たちと正面から向き合い、対話できる時間は私にとってかけがえのない時間でした。そのような環境がコロナの流行で一変します。すべての講義が遠隔授業となったのです。福岡に行かずに済むのでかえって楽なのでは、という淡い期待はたちまちのうちに吹っ飛び、毎日が授業準備とメール対応に追われ、最初の一ヶ月間は心休まる時間がありませんでした。気づけば講義の時間が何よりも苦痛な時間となっていました。一方、学校業務が「ステイホーム」になったおかげで家族との時間が増え、子どもたちと過ごす時間が何よりの癒しとなってくれていました。
そんな中、学生の1人が突然講義に顔を出さなくなりました。何度かメールを送ってみましたが返信はありません。毎回必ず出席してくれていた学生だったので気にはなりましたが、私はそこまで事態を深刻には捉えていませんでした。「遠隔授業に飽きたんだろう」くらいに考え、「期末レポートさえ出してくれれば大丈夫かな」と楽観的でした。そしてそう捉えるにいたった最大の原因は、遠隔授業を最小限の労力で乗り切り、なるべくプライベートな時間を確保したいと強く思うようになっていた私のエゴによるものでした。
後に、学生の欠席の原因が精神的な病によるものだったことを同僚の先生から教えていただきました。今になって思えば、同じクラスの仲の良い学生に尋ねたり、所属する学科の先生や学校に相談するなど、いくらでも対応策はありました。いいえ“今になって思えば”なんて真っ赤なうそです。本当はとっくに気づいていました。でもその頃の自分の殻の中だけでの幸せを求める生き方をやめられませんでした。
後日その学生と一度だけ直接話す機会がありましたが、「ごめんなさい」の一言は言いませんでした。その一言で終わらせた気になるのはこれまた私のエゴでしょう。この学生のためにも、この出来事を糧とし、誰ひとり取り残さない授業運営を心がけていきたいと思います。
親鸞聖人はこの現実において念仏者が得る利益の一つに「常行大悲」を挙げておられます。これは念仏に出遇った者が「常に大悲を行ずる」存在にならせていただくという意味です。換言すれば、“阿弥陀仏の願いを生きる”人生を歩ませていただく、ということになります。
ただし、われわれは凡夫です。凡夫とは、だれかのために行動したくてもできないから凡夫なのではなく、わたしの生き方がだれかを傷つけたり、粗末に扱っていたとしても、そのことに気づくことさえできないがために凡夫なのです。そのような私たちが“阿弥陀仏の願いを生きる”ということは、常に真実に照らして <わたし>を省みる視座をいただくということです。
わたしの愚かさ、あさましさをすべて見抜いた上で、それでもなお阿弥陀仏からわたしに向けられた願いがあることを有難く思います。自己中心的にしか生きられないわたしが、阿弥陀仏の願いに出遇わせていただくことで、不完全ながらもその願いに報いる生き方がはじまります。そのような願いに出遇えたことに歓喜し、だからこそ願いに背く形でしかその願いに出遇えないことに慚愧し、これからもともに念仏の大道を歩ませていただきましょう。
「光を聞く」
長寶寺 藤川 顕彰
昨今のコロナ禍で人との関りが少なくなり、改めて教えられたことがあります。心の奥底から感情をさらけ出し、自分自身や自分と関わってくださるものを知ることのできる場所が我々には必要ではないかということです。
昨年4月末、ある20代の方から相談を受けました。その内容は以下の通りです。
「最近尊敬する先輩が突然亡くなりました。私にとって人生の指針となるほどの先輩でした。身近な人が亡くなった経験がはじめてで、とても辛いです。他の親しい人達もいつかは亡くなるのかと思うと、その前に自分が先に死んでしまったほうがましとさえ思います。死への恐怖で夜電気を消して眠ることもできません。」
青年は、自粛生活の中一人で考える時間が多く、苦しみがあふれ出て、誰に言いようもなく私にお話しされたとのことでした。
この相談内容は、多くの方々が同じような経験をし、感じておられる苦悩だと思います。そして「仕方がない」「忘れよう」等の心の蓋をして、何とか気持ちを保とうとしておられる方も多いのではないでしょうか。私も同じような思いをもったことがあります。しかし、私には亡くなられた悲しみだけではなく南無阿弥陀仏の「教え」にあえて良かったと力いただくご縁がありますのでそのことをお話しさせていただきました。
その「教え」の内容を具体的にいうと、まずは死んで終わらない「いのち」ということです。この青年の上で言えば、亡くなられた先輩は、これまで青年の大きな支えであったと思います。では亡くなられた後は無意味な存在かといえばそうでないということです。肉体は朽ち果ててもいのちの触れ合いは終わらないということです。
次がその終わらない「いのち」の正体です。教えでは、亡くなったすべてのいのちを「仏さま」になられたとみます。仏さまとは如何なる存在かは、色々な見方がありますが、「導師」(導き手)という意味がわたしにとって一番の救いになっています。青年にとって先輩のいのちは青年を手を合わせる身へと導く存在になられたのです。さらに言うなら、教えの上ではすべてのいのちが仏さまになるとみるのですから、私も仏さまになれるのです。尊敬する先輩と、仏さま(導き手)という同じ立ち位置に立てるというのは、亡くなられた悲しみは変わらないですが、ちょっと嬉しいのではないでしょうか。以上のようなことを青年と一緒に確認させていただきました。
先日その青年に今回この内容を紹介していいか尋ねました。その時、
「いいですよ。おかげさまで前向きになれて、当時私が何を話したかさえ忘れてしまいましたけど、私の経験がお役に立てるのならうれしいです。」
と、微笑みながらおっしゃいました。仏さまとなられた先輩を近くに感じながら力強く日常を送っておられるようです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の御言葉の中に、「聞光力」(光を聞く力)という言葉があります。本来「光」は、照らし・照らされるものであって、聞くものではありません。では、どういった意味でこの「聞光」をうけとらせていただけばよいかというと、ここで大切なのは光とは何かということです。光とは「教え」であります。つまり、「聞光力」とは「教えがきこえてくるところの力」ということで、換言すれば教えは、わたしの、今回で言えば青年の闇を照らす光であり力となるということです。
お寺にお参りすると、阿弥陀さまを仰ぎよろこんでいらっしゃる方を目にします。もちろん仰ぐことは尊いことです。ただ、忘れてはならないのは、その仰がせていただいている阿弥陀さまには目的があるということです。「あなたも苦しいね」という単なる哀れみだけではなく、必ずすべてのいのち(私)を仏にするという目的をもっておられます。お寺で「教えを聞く」ということは、人生を歩むうえで常に阿弥陀さまが私の力になると聞こえてくるのです。そういった意味で、教えを人生の闇を照らす「光」と親鸞聖人は仰いでいかれたのであります。
「浄土真宗は聴聞に尽きる」という言葉の通り、念仏者にとって、阿弥陀さまのみ教えを聞くことは日常の要であり、これまでお寺の本堂や家庭のお仏壇の前でお聴聞のご縁が営まれてきました。しかし現在、インターネットの出現に昨今のコロナ禍が拍車をかけて、場所を問わずに画面上でお聴聞できるご縁が増えています。このことはより多くの機会で教えに触れることが出来る反面、場所としてのお寺やお仏壇の意義、お聴聞の意義が問われているように感じます。私にとって青年とのご縁は、青年のように自分をさらけだし見つめることのできる場所がご自宅の御仏壇の前であり、お寺であることを改めて考えさせられた出来事でした。
読む法話 「百重千重のお育て」 (上天草市 観乗寺 森島淳英)
百重千重(ひゃくじゅうせんじゅう)圍繞(いにょう)して よろこびまもりたもうなり
この御和讃は私が大好きな親鸞様の詩の一つで、南無阿弥陀仏と称えればありとあらゆる仏様が私一人を百の輪、千の輪で取り囲んでお護りくださるという詩なのですが、親鸞様は私たちがお念仏を申すようになるのは、阿弥陀様の願いが他の仏様も揺り動かし、その諸仏の「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏が今私のお念仏になっていると教えてくださいました。そう考えると私はお念仏申す前から「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と私の目には見えませんが沢山の仏様がたより百重千重と取り囲まれて、願われて生きてきたという事を味わうことができます。それがなんとも有り難いのです。
以前長崎にご縁を頂き法座の後で、お茶を頂きながら若坊守さんよりこんな話を聞かせていただきました。「先生、私は日頃境内の保育園に勤めていますが、毎日かわいい光景を見ることができるんですよ」と話をしてくださいました。聞いてみると、3歳の女の子が曾じいちゃんに手を引かれて登園をしてくるそうです。その子が毎日本堂の前で手を合わせて「なまんだぶ、なまんだぶ」と小さな手を合わせてお参りをしているのです。不思議に思った若坊守さん、女の子に「お利口さんね、なんでお参りしているの」と聞いてみたそうです。すると3歳の女の子「先生、ばーちゃんが亡くなった、それで園長先生に聞いてみた」というのです。「園長先生(ご住職)になにを聞いたの」と聞き返すと「ばーちゃんは亡くなって何処に行ったの?と聞いたの」と言ったそうです。「園長先生なんて言った?」と聞くと、「園長先生は阿弥陀様の方を指さしてね、ばーちゃんはね、お浄土に行ったんじゃ、仏様になって嬢ちゃんをいつも見ているんだよと言ったよ、だから私はおばーちゃんにお参りする気持ちでお参りしているの」と答えたそうです。
この子は生まれて三年。生まれながらに手を合わせて生まれてきた子供がいると聞いたことは一度もありません。この子供が手を合わせお念仏するまで沢山の育てがあることが目に浮かぶのです。
この話に登場するのは、手を引いて登園をする曾じいちゃん、保育園でやさしく見守ってくださる若坊守さんと園長先生。そして今は目には見えませんが亡くなったおばーちゃん、それ以外にもその子の父母や沢山の百重千重といわれるほどの人に願われ、育てられ合わす両手を持たせてもらったのでしょう。
昔、和上様(わじょうさま:浄土真宗の学問を究めた僧に対する尊称)が「駿河の富士山と加賀の立山と一つの処へ寄せることができるとも、悪人凡夫が両手合わせて念仏することは難い。しかしその徒ら者が手を合わせて念仏するようになったのは地上に二つとない有りがたいことだ」といわれたとありますが、今手を合わせ、お念仏申しているわが身のすがたを思うとき、沢山の方々のお育て、阿弥陀様のありありとしたお影を感じずにはおれれません。まさに百重千重の願いの中の私でありました。
読む法話 「輝く人生」 (宇土市 宝林寺 經智敬)
源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲(けんてつ)・愚夫(ぐぶ)もえらばれず
豪貴(ごうき)・鄙餞(ひせん)もへだてなし
(意)源空聖人は、その身から光明を放って、その姿を日頃から門弟たちにお見せになり、賢いものも愚かなものも
区別することなく、貧富や身分の違いによって分け隔てされることはなかった。
親鸞さまが法然さま(源空聖人)のお姿を褒め称えられましたご和讚でございます。
「源空光明はなたしめ」とあるように、法然さまはまるで光輝くようでありました。
苦悩に沈んでおられた親鸞さまには真実の光りであり、本当のよりどころであったのでしょう。また今まで目にしてきた比叡山の様子とは違い、親鸞さまにはとても衝撃的だったのでしょう。
さて、私たちが人生を歩むなかには、うれしいこと悲しいことといろんなことがございます。そのよろこびや悲しみを隠して生きていくことは難しいような気がしますし、またそれをなかなか隠せないのが人間なのだと思います。
私たちは人生を歩む中でいろいろな問題を抱えます。右に進むか左に進むかどちらかの決断をくだすとき、進んだ場所に満足できれば問題はないのですが、残念ながらどちらに進んでも私たちは選んだ場所でまた愚痴をこぼしてしまうのではないでしょうか。
親鸞さまは「それ真実の経をあらわさばすなわち大無量寿経これなり」と仰せられました。お経の「経」という字は「たていと」と読みます。織物を織るときに基本となるものが縦糸です。その縦糸に横糸を通し織物が仕上げられていきます。その場合、縦糸がきちん通っていないと織物が仕上っていきません。「たていと」即ち「経」とは絶対に揺らぐことがないもの、ものごとの筋道が通ることなのです。
お経、阿弥陀さまのみ教えを聞くことにより、どんな場所に身を置いても置いた場所できちんと筋道が通っていくよろこびの人生を歩めるのです。
法然さまは阿弥陀さまのみ教えをいただかれ、揺らぐことのない本当のよろこびにであっていらっしゃったのでしょう。そのよろこびが光りあふれるお姿であったのでしょう。
阿弥陀さまのみ教えを聞き、どんな境遇に身を置いても必ず筋道の通る人生を歩むことにより、この私も輝いていくのです。
読む法話 「聖(ひじり)の人」 (天草市 専念寺 山川正憲)
私は今年二月にお説教の為、お寺を一週間留守にしました。すると、私が住んでいる地域では、「ご院家(いんげ:住職のこと)がコロナに感染して入院している」といううわさが広まってしまいました。火消しに奔走する最中、何でこういう事態になっているのか複数人の御門徒さんに質問していくと、皆一様に返ってくる答えが「みんながそう言っているから」という驚くべきものでした。平常時なら、疑ったり、事の真偽を確かめたりするのでしょうが、非常事態下では、不安が先立って皆が冷静さを欠いています。何の根拠もない単なるデマが「みんながそう言うから」という理由で事実にすり変わっていくことに私は恐ろしさを感じました。
このような、他人を惑わしたり傷つけたりする行動を引き起こすのは不安や恐怖です。実はこの不安の根源は自身が抱えている自分本位な心、つまり煩悩にあります。
親鸞聖人は『歎異抄(たんにしょう:親鸞聖人の語録)』の第九条で「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころ ぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」と述べられています。つまり少しでも病気にかかると死ぬのではないかと心細く不安に思われるのも煩悩の仕業だと冷静に受け止められております。
このように冷静に受け止められたのは、親鸞聖人がお念仏のみ教えに出遇われていたからでしょう。自分を取り巻く環境の変化によって生じる不安の根源が、自身の抱えている煩悩にあるとお念仏を通して知らされていたからこそ、厳しい現実を冷静に受け止める ことができたのです。
親鸞聖人の「聖」の字は「耳を呈する」という意味があり、また「ひじり」という呼称は「非知り」と字を当てることがあります。すなわち、親鸞聖人は自らを「愚禿(ぐとく)」と名のり、生涯教える人としてではなく、ただ共々に導かれ救われるものとしての喜びを語り続けられたのであります。弥陀の本願に照らされて、聞かねばならないのは他ならぬこの私、教えられなければならないのはこの私と、お念仏申す中で徹底して我が身と向き合い耳を傾けてゆかれたのが親鸞聖人でありました。
この度、コロナ禍で致し方ないとはいえ、散々デマに振り回されて大変な憂き目にあいました。正直腹立たしくもありましたが、冷静に考えてみると私自身も須(すべか)らく煩悩に苦しんでいる存在であり、縁によっては加害者たりうるのです。私もまた自分本位な思いに翻弄されていたことに気づかされたとき、有り難いことに、地域の方々の流言飛語に対する怒り・腹立ちが徐々に和らいでいきました。
親鸞聖人のように、如来の大悲を聞かせていただく歩みとは、どこまでも我が都合・我が心にとらわれながら苦悩を抱え生きていかなければならない、偽らざる私の姿と否応なく向き合っていくということです。そして、自己本位の心にとらわれ、はからずもやること為すことすべてが苦悩の種まきとなっている私に大悲の涙は注がれているのです。
この大悲の涙は今苦悩の真っ只中に生きる私にお念仏となって「そのまま救う。 必ず救う。」とはたらきづめにはたらいてくださっております。
一声一声のお念仏の裡(うち)に、果てしなく広く深いお慈悲のぬくもりを感じずにはおれません。
お念仏を通して我が身と向き合いながら、煩悩に翻弄されることない人生を大悲のぬくもりと共に歩んでまいりましょう。
布教団第一支部 紙面布教大会①
熊本教区布教団第一支部では毎年1月31日と5月31日に本願寺熊本別院にて布教大会を開催していますが、新型コロナのために2020年1月を最後に布教大会が開催できていない状態です。そこでこのたび若手布教使の研鑽もかねて文章による布教大会を行うことといたしました。
若手布教使を中心に複数名が法話原稿を提出し、のべ10時間以上にわたるオンライン検討会を経て、まずは3名の法話を掲載させていただきます。
教区内寺院へは7月末に教区報等とともに文書にしたものを郵送させていただきました。
「君は君 私は私 でも同行」
浄影寺 青木崇信
「君は君 私は私 でも同行」 広島県超覚寺様の掲示板のことば。
感染拡大が進むなか、人と人との隔たりに思い悩んでいた時に出会ったことばでありました。「同行」とは、阿弥陀さまの同じ救いの中にある仲間という意味です。
阿弥陀さまは、すべてのいのちのすがたをことごとくご覧になり、そのすべてのいのちを漏らさず救う仏さまであります。 南無阿弥陀仏の声の仏さまとなり、いついかなるときも、どのようなすがたであったとしても私にいつもご一緒して下さいます。
「ひとりで寂しいから、外に出れば誰かに会えると思って出てきてしまいました」大晦日、渋谷の街に一人佇むマスク姿の若者の言葉。繁華街に集まる人たちを「不要不急」と必要以上に吊し上げる人々がTVなどのメディアでクローズアップされ、”自粛警察“という言葉も生まれたこの一年。私も知らず知らずのうちにその流れに乗り、TVの前で声高に「不要不急」と叫んでおります。ですが、「出てきてしまいました」とのマスク越しの声は、おそらく感染症を軽んじているわけではないでしょう。繁華街に出ることが好ましいことではないと理解した上で、それでも尚、出るよりほかなかったとの叫びのようにも聞こえます。TVを付ければいつも以上に華やかな番組ばかりの年末年始。おそらく実家に帰ることも許されず、部屋でひとり孤独に押しつぶされそうな不安な状況の中、人を感じる場を求めることはその若者にとって「不要不急」ではなかったのかもしれません。
一方で、他を吊し上げ「不要不急」と声高に叫んでいる時の私もまた、実は不安の只中にあります。感染症への不安はもとより、コロナ禍による社会の変化で居場所を失うことへの不安。自粛をしているが故に人と会えず孤独を感じる日々。だからこそ自粛を頑張れば頑張るほど、繁華街に赴く人を見れば腹立たしく思い、他を攻撃しその不安を紛らわせているのです。しかしながら、メディアで”自粛警察“と批判されればまた不安に逆戻り。それでも、よくないことだと自覚しながらも「不要不急」の声を止めることができません。また、初めてひとり暮らしをした時、寂しさからひっきりなしに友人に電話をしていた過去を思い返すと、前述の若者と同じ環境であったならば、リスクがあるとわかりながらもマスクを着け繁華街に赴く衝動を止めることはできないでしょう。今の私と過去の私、環境は変化してもその時々で不安や孤独を感じていることに変わりありません。どちらも不安や孤独を抱えながらも、そこから解決する術を持ち合わせていないのが苦悩の私のすがたであります。
その私のすがたをご覧になり、悲しまれ、その私を救いのめあてとされたのが阿弥陀さまです。不安と苦悩の歩みを自ら止めることのできない私を見抜いて、阿弥陀さまの方より救いの中に摂め取り、決して捨てることはありません。そして、声となりことばとなり「南無阿弥陀仏。あなたはすでに救いの中にありますよ。不安にはさせません、ひとりにはさせません、決して見捨てません。どんな時でもあなたと一緒に居りますよ。南無阿弥陀仏」と救いを告げて下さいます。
阿弥陀さまはすべてのいのちを救う仏さま。それは、私がいついかなるときも、どのようなすがたのときも決して見捨てることはありません。自粛を頑張れば頑張るほど不安や孤独を感じて他を吊し上げかねない私、孤独に押しつぶされそうになりリスクを顧みず繁華街へ赴きかねない私、縁に触れればいかようにも変わっていく私を見抜いて、悲しまれ、そのすべてに寄り添い続けて下さるのが阿弥陀さまです。変わっていく私を救うには、すべてを救う仏さまとなるよりほかなかったのです。
「君は君 私は私 でも同行」このことばは、前述の相反する二者が、実は同じ苦しみを抱え、その苦しみの存在をめあてとする阿弥陀さまの同じ救いの中にあったということ。同時に、二者のすがたは私のすがたであり、そのすがたに、私自身が改めて阿弥陀さまの救いの中にあったことを確かめさせていただきました。
私が「不要不急」と声高に叫んでいるとき、お恥ずかしいことに自らは相手より優れているものとして、正しいものとして攻撃しています。しかしながら、自らが阿弥陀さまの救いのめあてである悲しい存在であることが明らかになったとき、相手よりも私が優れているどころか、反対に教え導いて下さっていたお同行であったと気付かされたことでした。
大変お恥ずかしく、そして大切なことに向き合わせていただいたご縁でありました。
「人生を支えるもの」
光輪寺 岩男真智
よく晴れた朝、お参りに行く道すがら、ある家の前で「いってきまーす。」と大きな声が聞こえました。小学生の男の子とその子のお母さんが玄関から出てきて、外まで見送りをしているようです。男の子は、私に気付くと大きな声で「おはようございます。」と挨拶をしてくれて、私の前を走って行きました。微笑ましい親子だな、いい子だなと思いながら男の子の背中を見ていると、ぱっと後ろに振り返って何度も手を振りながら「おかーさーん。」と言っています。驚いて私も一緒に振り返ってみると、お母さんはまだ、男の子の見送りをしながら「いってらっしゃーい。」と言って、手を振っているのです。また男の子は前を向き走り始めましたが、少し進むと振り返りお母さんに手を振っています。結局、ずっとお母さんは手を振りながら、男の子に声をかけ続けていました。男の子も、遠くに行けば行くほど叫ぶように「おかーさーん」と、呼び続けていました。
この光景を見ていると、小学校の頃の記憶がよみがえりました。思い返してみると、小学校の頃は母がいつも見送ってくれていたように思います。そして、その見送られることを覚えているということは、きっとあの男の子のように母の名を呼んでいたのでしょう。母は私が喜んで学校に出かける時は、元気に送り出してくれましたが、私が不安そうに学校に出かける時は、「大丈夫かな。」と心配そうに送り出してくれたものです。私はそんなことなどすっかり忘れていましたが、皆様にも母親に見送られたという想い出がある方もおられるのではないでしょうか。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、「子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」とお念仏のこころをうたわれています。そのおこころは、子どもが母親を慕うように、阿弥陀さまをいつでも忘れることなく信じ、お念仏するならば、この世においても、将来お浄土に生まれても、私のすぐ側に阿弥陀さまはいて下さるのですよと仰っています。
阿弥陀さまは私たちを我が子のように思って下さっていて、いつも私たちを見ておられます。そのおこころは、私が見た男の子のお母さんのように、見えなくなるまでわが子の手を振る呼びかけに答えようとするその姿と、似ているのかもしれません。そしてお母さんは、決して男の子の行く先に悲しい思いがないよう、苦しい思いがないよう、元気に家に帰って来ることを願いながら手を振っていたのだと思います。恐らく、その願いは男の子を学校に送り届けるだけの願いではありません。男の子の将来に至るまで、支え寄り添いたいという願いです。これからあの男の子は、私のようにお母さんとのやりとりを、何でもない日常として忘れていくのかもしれません。しかしこのような願いと愛情の中で育った男の子は、人生の苦しみにあっても母の名を呼び、母の面影がよみがえる時、「ひとりきりではなかった。私の人生には、いつも私を待ってくれる人がいたではないか。」と母の存在がそのまま、人生の支えであったのだと気づくのではないでしょうか。
この親の深い願い・愛情というものは、我が子までにしか及ばない限りのある心ですが、阿弥陀さまは、私たちひとつひとつのいのちを我が子として願いのすべてをかけて、限りなくはたらいて下さる仏さまです。その願いのままが「南無阿弥陀仏です。「南無阿弥陀仏」は「必ず救う。我にまかせよ。」という親が子を喚ぶ声であり、また同時に子が親の願いに「はい。ありがとうございます」と返事をする声でもあります。つまり、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまの親の名のりなのです。
阿弥陀さまは、いつでも私たちとご一緒です。手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀さまのお名前を呼ぶとき、私のそばに来て「あなたの親はここにいるよ。常に見護っているぞ。」と語りかけて下さっています。
私がお念仏の意味も分からず称えていた時からもずっと変わらず、途切れることなく親の様に阿弥陀さまに願われ、喚び続けられていたことを、ご和讃を通して知らせていただきました。そしてお念仏は、私をひとりにさせまいとする親の喚び声であり、その喚び声は私の人生を支え、生き抜く力そのものであると慶ばせていただいております。
「ぎんぎんぎらぎら」
両嚴寺 郡浦智明
民間宇宙船「クルードラゴン」に搭乗し約半年の間、宇宙に滞在していた宇宙飛行士の野口聡一さんが無事帰還されました。野口さんが宇宙に滞在している時、宇宙から見た地球の様子を写真に撮られて、日々インターネット上で紹介されていました。暗い漆黒の宇宙空間の中で、地球が綺麗に光り輝いている様子は、神秘的で美しいばかりです。ただそれを見ていて、私はふと疑問に思いました。「地球は光り輝いて見えるのに、宇宙はなぜ暗く漆黒に見えるのか。太陽の光は宇宙を通過しているはずなのに、なぜ地球だけ輝いて見えるのか。」と。調べてみると、地球には空気があり空気中にある微粒の塵に太陽の光が反射して、輝いて見えるという事がわかりました。その環境があるからこそ地球は、遥か彼方にある太陽から明るさやぬくもりなど、様々に恩恵を受ける事ができるというのです。それに対して宇宙の空間は、真空状態で空気もなく光を反射する環境がないので、暗くて冷たいというのです。光そのものが明るいわけではなく、光を反射する「めあて」がなければ、その明るさを感じることができないという事が、当たり前のようで改めて驚きでした。
『仏説阿弥陀経』に「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。」と説かれています。十方のあらゆる国をくまなく照らし、すべての衆生をさわりなく救いたまう、量り知れない光明の徳をもっておられるから「阿弥陀仏」と名づけたてまつるというのです。その光明のめあては、生死という苦悩を抱え迷い惑う衆生です。生死というのは生老病死の四苦といわれ生きるか死ぬかという話ではありせん。生まれてくる苦しみ、歳を重ねていく苦しみ、生きる上で病気も避けられないという苦しみ、命を終えていかなければいけない苦しみという根本的な苦しみの事です。自分の思い通りにならない苦悩を抱えている私が、阿弥陀さまのめあてなのです。
我が家に、今年で九十六歳になる祖母がいます。最近の出来事を忘れてしまう事が多くなった祖母ですが、お寺に嫁いできた時の事、戦時中に苦労した時の事など、昔の事は鮮明に昨日あった事のように話してくれます。そんな祖母が昔に戻った様子で、楽しそうに私の子どもたちに、いろんな唄を歌い聞かせてくれる事があります。『夕日』という童謡も祖母がよく歌ってくれて、子どもたちもすっかり覚えてしまいました。
「ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む」
祖母や子どもたちが一緒に歌う『夕日』を聴きながら、私はそこに唄われている情景を想像してしまいます。この唄の舞台がどこなのかはわかりませんが、そこに暮らしている人たちが、それぞれに夕日に照らされているような情景が唄われています。そこには、いろんな境遇や思いを抱えながら、精一杯生きようとしている老若男女がいる事でしょう。その一人一人が、夕日によって照らされ、真っ赤に染め上げられ、ぎんぎんぎらぎら輝いているような情景を想像するのです。
歌っているときは楽しそうな祖母ですが、最近は愚痴や弱音も増えてきました。年々足腰も弱り、認知症も少しずつ進んでいく中で、身も心も思い通りにならない自分自身に対して、情けなさや口惜しい思いが強いのかもしれません。そんな祖母ですが、日課である朝のお参りは欠かしません。朝食前に必ず本堂に座り、阿弥陀さまに向かって手を合わせ、普段は愚痴や弱音の多い口から、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と、お念仏がこぼれてきます。祖母が私に法話をする事はありませんが、祖母の口からお念仏がこぼれてくるすがたに、ご法話を聴聞したような思いになります。
「苦悩を抱え、思い通りにならない我が身だけれども、この身がそのまま阿弥陀さまのはたらく場所だったよ。生きるか死ぬかのむなしい人生ではなく、阿弥陀さまに照らされ支えられ、この人生を歩み抜ける道が共々にあるんだよ。」と。
祖母はその姿をとおして、同じ生死の苦悩を抱える私に、大事なことを教えてくれます。そのように思うと、私には祖母が輝いているように見えるのです。
読む法話 「ほんとうにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」 (芦北町覺円寺 黒田了智)
最終回直前の週、西田敏行さん演じる父親は数度目の脳梗塞で倒れ危篤状態に陥りますが、奇跡的に助かります。ただ、その時の「しかし、奇跡は二度と起きなかった」というナレーションに、ああもうお父さんは長くないのだな、と思いながら最終回を迎えました。
最終回、父親と主人公に何かよそよそしい態度の家族たち。何か変だなあと思って観ていると、衝撃の事実が判明します。亡くなったのは父親ではありませんでした。プロレスの引退試合の事故で主人公である長男が亡くなっていたのです(主人公は父親の目に映っていた幽霊でした)。「クドカン(宮藤官九郎さんの愛称)」らしい大どんでん返しの話でびっくりしましたが、それより衝撃を受けたのが、「お父さんが亡くなるに違いない」と私自身が思い込んでいた事です。
普段お坊さんとして、法事やお通夜で「老少不定、年配者よりも先に若い方が亡くなるかもしれない、それがこの世の中ですよ」とお話しさせていただいているにも関わらず、私が一番「老いたる者が先に、若い者が後に」という固定観念に囚われていたのかもしれません。ドラマの放送後、インターネットのツイッターに投稿された「ほんとにいなくなってしまう人は、いちばんいなくなってしまいそうな人とは、限らないのだ」という言葉が大変に心に沁み入りました。
年若い方との別れを「逆縁」と言ったりしますが、「善知識(仏道に導いてくださる方)」と亡き方を仰いで行く別れもあります。平安時代の歌人、和泉式部は一人娘の死を受け入れる事が出来ず、その心を「子は死して たどりゆくらん死出の道 道知れずとて帰りこよかし(大意:子どもが死後に迷ったなら私の元に帰ってきて欲しい)」と詠んでいます。その和泉式部が仏様のみ教えに偶い、別れを受け入れていきます。その時に詠んだのが「仮に来て 親にはかなき世を知れと 教えて帰る 子は菩薩なり(大意:子どもは私を導いてくださる菩薩様でした)」という歌です。
逃れ難き現実を身を持ってお示し下さった仏様であった、と亡き方との別れを受け入れて行く事ができるのは、私たちのいのちそのものを全て抱きとって、必ず仏に仕上げるとはたらき続ける、阿弥陀如来様が側にいて下さるからであります。その阿弥陀如来様との出遇いの場が、お通夜や葬儀、年回法事などの仏事ではないでしょうか。