法話集
読む法話「またがんそ」 (芦北町 芦北組 覺應寺 葦原顕信)
以前宮崎県都城市のお寺の法務員をしていたときのことです。初めて住む土地。道がわからないのはもちろん、話しかけられる言葉も最初の頃は全然理解できず戸惑ったものでした。都城市を含む地域で使われる言葉は「諸県弁(もろかたべん)」と呼ばれ、とても特殊な表現が多くあります。この諸県弁がフランス語に聞こえることを利用したPR動画を小林市が作っているくらいです。ですから世間話一つ理解できない私に、その都度ご門徒さんが様々な言葉を教えてくださいました。
その中で特に印象深いのが、「めあげんそ」と「またがんそ」という言葉です。「めあげんそ」は人の家を訪ねるときに言います。「めあげんそ」とは「みあげもそ」とも言い、「お土産持ってきましたよ」を短くした言葉だそうです。そして今度は帰る時、別れるときに言うのが「またがんそ」です。「また会いましょう」という意味だそうです。
この言葉を教えてもらったとき、良い言葉だなぁと思いました。では、なぜ「さよなら」ではなく、「また会いましょう」と言うのでしょう?これでお別れだと思っているなら出てこない言葉です。
ということは、たとえ今別れることになっても、また会う場所がある、また会う時間がある、そしてまた会いたいと願っている。だからこそ「またがんそ」という表現がうまれたのではないでしょうか。
『仏説阿弥陀経』というお経さまに、
舎利弗(しゃりほつ)、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑは
いかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。
(現代語訳)
舎利弗よ、 このようなありさまを聞いたなら、 ぜひともその国に生れたいと願うがよい。そのわ
けは、 これらのすぐれた聖者たちと、 ともに同じところに集うことができるからである。
というお言葉がありますが、これはつまり、「お浄土でまた会いましょう」ということであります。
阿弥陀様の願いに出遇うものはみな、お浄土でまた会う世界を恵まれるのです。
そして、その阿弥陀様の願いは「南無阿弥陀仏」と我が声となってくださっているのですから、「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えするところには、このいのち終えたときただ別れていくのではなく「また会いましょう」と言える世界が広がっていくのです。
せっかく「またがんそ」と言える人生、思い出やおみのりをひとつでも多くお土産に持たせてもらいながら、一日一日を送りたいものです。
新年のご挨拶 熊本教区教務所長・熊本別院輪番 大辻󠄀子 順紀
慈光迎春
お念仏とともに新年を迎えられましたこと、皆さまとご一緒に慶び感謝申しあげたく存じます。
- さて、昨年6月19日に熊本城ホールにおいて、「熊本教区・本願寺熊本別院親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」を盛大かつ立派にお勤めすることができました。これも偏に仏祖のご加護はもとより、熊本教区並びに熊本別院の皆さまのご協賛の賜物と改めて厚く感謝申しあげます。
- 各組長や法要スタッフのご尽力をはじめ、お参りいただきましたお一人おひとりのお念仏を慶ぶ思い、そしてお念仏を大事にご相続されてきた先人方のお導き、そして何より阿弥陀さまのご催促のお蔭でありました。そんなことにも気づかず自分勝手な思いやちっぽけな考えのなかにお念仏を閉じ込めておったなと、改めて思い知らされたことであり、大変申し訳ないことでした。
- 合掌
読む法話「真のお導師」 ( 芦北町 芦北組 覚円寺 黒田了智)
現在の葬儀は火葬で行いますが、かつて50〜60年ほど前までは、土葬の葬儀がまだ行われていました。土葬と火葬で色々な面で違いがありますが、一つは棺の形が違います。現在の棺はご遺体を寝せてご安置する「寝棺」ですが、土葬時代の棺は座らせてご安置する「座棺」でありました。寝棺であれば顔は上を向いておられるので、向きは問題になりませんが、座棺となると顔の向きが決まってきます。果たしてどちらに向けてご安置していたのでしょうか。
葬儀をお別れの式と捉えるならば、お参りの方と顔を合わせてという事で、参列の方の方に顔を向けていたのでは?と思いますが、そうではなく、仏様の方に顔を向け、参列の方には背中を向けてご安置していたようです。さらに、棺の上には葬儀の際に導師が付ける七條袈裟(しちじょうげさ)と七條袈裟の肩口につける修多羅(しゅたら)という紐を乗せてお勤めしておりました。この事は一体何を意味するのでしょうか。
葬儀の際にお勤めをする僧侶の事を「導師」といいます。真実の教えに導いて下さる先生という意味です。実際の導師はお手次のお寺の住職がされますが、「真のお導師」は亡くなられた故人である、という事が、先ほど挙げた棺のご安置の仕方に表されていた、という事であります。
それでは、何を教えて下さる先生なのか。まず、自らの生命を持って「誰もが必ず生命終えていかねばならない」という私たちの逃れ難い現実を教えてくださる先生であります。さらにその「必ず生命終えていかねばならない」私たちの生命を、決して死んで終わりの生命には終わらせないとはたらき、お浄土に生まれさせ仏と仕上げて下さる阿弥陀如来の教えに導いて下さる先生であります。もう既にお浄土に生まれられて、私たちもたどっていくお浄土への道筋を示して頂いた方でありました。
土葬から火葬へと葬儀の形は変われど、その心は変わりません。葬儀は単にお別れの式ではなく、私たちが大事な教えに遇わせて頂く尊いご縁であります。そしてそれを教えて下さるのが亡くなった故人でありました、という中に、別れの寂しさと共に、有難うございますと、手が合わさっていく事でありました。
読む法話「死んだら、どうなるの?」 (熊本市 託麻組 良覚寺 吉村隆真)
本年を振り返れば、元日に北陸地方で大地震が、2日には東京羽田空港で航空機事故、さらに3日には北九州市小倉北区で大規模火災まで発生し、心が痛む始まりとなりました。
私の身辺でも、12月30日にお二人が相次いで往生を遂げられ、年明け早々の通夜・葬儀でした。いつも死は「待ったなし」です。私たちの勝手な都合が入り込む余地さえありません。
一休さんの愛称で親しまれ、アニメの主人公のモデルでも知られる一休禅師(一休宗純)は実在した人物で、室町時代を生き抜いた臨済宗の僧侶です。様々な逸話が残されていますが、中でも次の短歌は有名です。
「門松や(は) 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
「門松」は正月を象徴するお飾りで、「冥土」は死後の世界を表す一般的な言葉です。「浄土」真宗の私たちには用のない言葉ですが、世間では「冥土のみやげ」などの表現で使われます。「一里塚」とは、当時の街道沿いに約4㎞毎に設けられていた道標で、旅人にとって欠かせない目印でした。この歌は、人生を死への旅路に例えて詠まれているのでしょう。新年を迎えると、世間は「めでたい」とお祝いムードですが、裏を返せば確実に一歩、自らの命日が近づいたことに他なりません。そのように考えてみるならば、「明けましておめでとう」の賀詞は、死というゴールへ向かって、また「一里」歩みを進めたという宣言とも言えます。その事実に目を向けず、浮かれてばかりいたのでは、この人生は夢か幻のように、瞬く間に過ぎ去ってしまうとの諭しでしょう。
人生の体感速度は、年齢に比例して加速する一方ではありませんか? 子どもの頃には徒歩ぐらいのスピードだったのが、やがて自転車、さらには自動車の速度へと加速し、今や高速道路を走っているような感覚で、あっという間に1年が過ぎ去っていきます。いつ・どこで・誰が・どのような事態に遭遇して死を迎えても不思議ではない無常の世を生きている私たちです。死の縁は無量であり、死は必然なのです。体脂肪率には個人差がありますが、生ある者の死亡率は例外なく100%です。多くの人は、この現前たる事実に気づいていないか、忘れたまま人生を謳歌しているかのようです。
ところで、あなたは飛行機に搭乗した経験があるでしょうか? 着陸できる確証がない状況では、決して離陸させないのが航空機の運航ルールです。自動車であれば、目的地の駐車場が混雑していても、路肩に停車して順番を待てば済みます。しかし、飛行機はそうはいきません。仮に見切り発進で飛び立ったとして着陸できなかった場合、上空を旋回して順番を待つことになります。受け入れ先の空港が見つからないまま燃料が尽きれば、墜落する事態を招きかねません。出発する前に着陸地点が確約されていなければならないのが飛行機です。
では、私たちの人生を考察してみましょう。誕生に際して、事前にさまざまな説明を受けて産声を上げた人など誰もいません。人生の意味や生きる目的はおろか、「死んだら、どうなるのか?」この問いに対する答えなど持ち合わせずに、まさに見切り発車でこの世に生を授かったのが私たちです。それはまさに、着陸地点の確約がないにもかかわらず飛び立ってしまった飛行機と同じです。飛行機であれば、離陸した空港に舞い戻るという方法もありますが、人生そうはいきません。いつ訪れるかもわからないタイムリミットへのカウントダウンが進む中、各々が与えられた制限時間内に確かな着陸地点を求めなければならないのです。こんなに心配な不確定要素はありません。
もし、あなたが搭乗した飛行機が徐々に高度を上げ、上空で安定飛行に入ったとしましょう。本来であれば、シートベルト着用サインも消え、ドリンクサービスが始まる安心できるひとときです。ところが、機長から「当機は只今のところ、着陸空港が決まっておりません。飛行中に探してみつける予定ではありますが、万が一みつからない場合は不時着、もしくは最悪の場合には墜落も覚悟してください」との緊急アナウンスが流れたとしたら、いかがでしょう? 恐怖と不安で機内は一瞬にしてパニックになるはずです。実は人生も同じ状況にあるという事実に、どれだけの人が気づけているでしょう?
「死んだら、どうなるのか?」この問いに確かな答えが与えられている人生は、安心できるフライトと言えます。しかし、そうでない人生に安心などありはしません。なのに、多くの人々は、着陸よりも目先のことばかりに一生懸命です。
間もなくシートベルト着用サインが点灯し、必ず着陸態勢に入るときが訪れます。人生に「ゴーアラウンド(着陸のやり直し)」はありません。
「死んだら、どうなるのか?」この宿題への答えを、お寺で一緒に確かめ合いませんか?
読む法話「ご安心とご恩報謝」 (山鹿市 山鹿組 常法寺 佐々木高彰)
ご当流のみ教えは、「信前行後」がご定です。
その心を親鸞聖人は『正像末和讃』に、
「弥陀の尊号となへつつ 信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」
と示されます。
壮年期を過ごした関東から六十歳を超えて再び京都にお戻りに成った親鸞聖人には、関東同行から多くの質問が送られて参ります。聖人は折々にお便りを認(したた)められました。
その中で、関東の同行に対し、
「我が心の悪き往生は無理と言う人には、心のままにて往生は一定ですと申して下さい。しかし、お念仏のお誓いを聞いて、阿弥陀様のお心を深く信じる人は、薬ありとて、毒好むべからずとなるのです。」
と戒めておられます。
その心を滋賀県の覚上寺超然和上は、著書『里耳譚(りじたん)』に
「寝姿に 叱り手の無き 暗さかな」
と。 阿弥陀様のお救いは如何なる者も救います。「本願を妨げる程の悪無きゆえに」と…。
しかし、お慈悲を喜ぶ様に成った人は、
「寝姿の 美しゅうなる 夜寒かな」
如何なる姿も許すとは言うとも、真冬寒い中に布団を蹴飛ばして寝る人は居ません。自ずと襟元を整えて休む様に、仏様の心を模倣して生きるのも、ご恩報謝の姿です。
昭和三十四年九月二十六日、東海地方は、伊勢湾台風の大被害を被りました。京都で多くの学生さん達が街頭に出て募金活動をしたとき、独りの小学生が学生さんに向かって、
「お兄ちゃん、寄付は幾らでも良いですか?」
と。そこで学生さんが、
「幾らでも良いですよ。」
と。すると小学生は十円を募金箱に入れるや、三円おつりを頂戴と…。
学生さんは驚いて、
「ボウヤなにに使うの?」
と。すると、
「母のお手伝いで四条河原町まで嵯峨野から来て残りのお小遣いは二十円しかなく、帰りの電車賃が十三円必要です。そこで七円を寄付したいのです。」
と。学生さんは三円を手わたしました。すると電車の中から、
「お兄ちゃん、たった七円しか寄付できずにゴメンナサイ。」
と。この少年を学生さんは合掌して見送りました。
*するんじゃ無い させていただくのです。
読む法話「私の阿弥陀仏」 ( 益城町 益北組 壽徳寺 河邉梨奈)
マスクを手放せなかった日々からしてみれば、人の行き来も、各種行事も、元のペースに戻った感のある今日この頃ですが、文字通り「辛抱」をして過ごされた体験談をお聞かせ頂くことがあります。
新型コロナウイルス感染症が流行し、親しい人と会う事さえ自粛せざるを得なかった時期に、お連れ合いをなくされた女性、Aさんがおられました。入院中の面会も思うようには許されず、訪れる人もいない中、Aさんは心細さに耐え、仕方ないのだと自身を納得させて覚悟しておられたそうです。
ところが、通夜・葬儀の段になり、本来ならば多くの参列者で埋まるはずの場所が、がらんとした空席であったのを目にした瞬間、激しく動揺してしまったといいます。
どうして、私の夫の通夜葬儀には誰も来てくれないの?と。
「お腹の底からとんでもない怒りと情けなさが湧いて湧いて止まらなかったの、だから泣いちゃったの、亡くした悲しみとは違う涙が出たのよ。」
時が流れて、何度目かの月参り。お茶を淹れつつポツリポツリと漏らされるその言葉を只々、聞かせて頂いたことでした。
心は自分の意思でコントロールできるものではなかったのです。どんなに穏やかであろうと努めても、自分の起こした波によって一瞬で荒れていくのが私の心です。
「いはんやわが弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦(じゅ)するに、無辺の聖徳(し
ょうとく)、識心(しきしん)に攬入(らんにゅう)す。
親鸞聖人著『教行信証 行巻』 ~元照律師(がんじょうりっし)の『弥陀経義』より引文~
(現代語訳)
「まして、 阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。 そこで、 この名号を耳に聞き、 口に称えると、 限り
ない尊い功徳が心に入りこむのである。」
阿弥陀仏は、そんな私の性質を見抜かれたのです。「波を立てるな」とは要求されず、私の状況、機嫌を問わない仏となられました。いかなる時でも声となって出る、六字の南無阿弥陀仏となられ、届いて下さるのです。
北宋の元照律師(がんじょうりっし)は「私の阿弥陀仏」とよろこびを書き残されました。鎌倉時代の親鸞聖人もまた「私の阿弥陀仏」とよろこばれ、現代を生きる私に伝えて下さいました。
去年、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要に2人の子どもと共に参拝しました。久しぶりのご本山、そして今回のような大法要のご縁に遇うことは難しいと思い、御影堂に響くような大きな声でお念仏しようと思ったのですが、子ども達が参拝する姿を見ていると胸がいっぱいになり、最初のお念仏は声に出すことが出来ませんでした。
しかし、詰まった声、涙にむせぶ声、声にならないそのままで、お念仏は出るのです。
さらには、嬉しくて弾む声、怒りに満ちた棘のある声、辛く沈んだ声、老いや病を得て、意のままにならない声、お念仏は声を選ばないのです。
「識心に攬入(らんにゅう)す」の「攬」には「手中におさめて、よせる」の意味があります。阿弥陀仏の方から私をとらえて離さず、すべての功徳を私にふり向け、染み渡って下さるのです。
心が波立たなくなるわけではありません。ですが、怒りと悲しみを露わにしながらも手が合わさり、お念仏なさるAさんのお姿に頭が下がるのです。