新着情報

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布教講会中止について

2024年9月19日

このたび、宗派僧侶養成部より2024(令和6)年度「布教講会」中止の通知がありましたのでお知らせいたします。 宗派の布教使研修会として、多くの布教使が参加可能な開催方法など検討が行われておりますこと申し添えます。
読む法話「私の阿弥陀仏」 ( 益城町 益北組 壽徳寺 河邉梨奈)

2024年9月1日 ブログ

 マスクを手放せなかった日々からしてみれば、人の行き来も、各種行事も、元のペースに戻った感のある今日この頃ですが、文字通り「辛抱」をして過ごされた体験談をお聞かせ頂くことがあります。  新型コロナウイルス感染症が流行し、親しい人と会う事さえ自粛せざるを得なかった時期に、お連れ合いをなくされた女性、Aさんがおられました。入院中の面会も思うようには許されず、訪れる人もいない中、Aさんは心細さに耐え、仕方ないのだと自身を納得させて覚悟しておられたそうです。  ところが、通夜・葬儀の段になり、本来ならば多くの参列者で埋まるはずの場所が、がらんとした空席であったのを目にした瞬間、激しく動揺してしまったといいます。  どうして、私の夫の通夜葬儀には誰も来てくれないの?と。  「お腹の底からとんでもない怒りと情けなさが湧いて湧いて止まらなかったの、だから泣いちゃったの、亡くした悲しみとは違う涙が出たのよ。」  時が流れて、何度目かの月参り。お茶を淹れつつポツリポツリと漏らされるその言葉を只々、聞かせて頂いたことでした。  心は自分の意思でコントロールできるものではなかったのです。どんなに穏やかであろうと努めても、自分の起こした波によって一瞬で荒れていくのが私の心です。   「いはんやわが弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦(じゅ)するに、無辺の聖徳(し   ょうとく)、識心(しきしん)に攬入(らんにゅう)す。           親鸞聖人著『教行信証 行巻』 ~元照律師(がんじょうりっし)の『弥陀経義』より引文~   (現代語訳)   「まして、 阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。 そこで、 この名号を耳に聞き、 口に称えると、 限り   ない尊い功徳が心に入りこむのである。」  阿弥陀仏は、そんな私の性質を見抜かれたのです。「波を立てるな」とは要求されず、私の状況、機嫌を問わない仏となられました。いかなる時でも声となって出る、六字の南無阿弥陀仏となられ、届いて下さるのです。  北宋の元照律師(がんじょうりっし)は「私の阿弥陀仏」とよろこびを書き残されました。鎌倉時代の親鸞聖人もまた「私の阿弥陀仏」とよろこばれ、現代を生きる私に伝えて下さいました。  去年、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要に2人の子どもと共に参拝しました。久しぶりのご本山、そして今回のような大法要のご縁に遇うことは難しいと思い、御影堂に響くような大きな声でお念仏しようと思ったのですが、子ども達が参拝する姿を見ていると胸がいっぱいになり、最初のお念仏は声に出すことが出来ませんでした。  しかし、詰まった声、涙にむせぶ声、声にならないそのままで、お念仏は出るのです。  さらには、嬉しくて弾む声、怒りに満ちた棘のある声、辛く沈んだ声、老いや病を得て、意のままにならない声、お念仏は声を選ばないのです。  「識心に攬入(らんにゅう)す」の「攬」には「手中におさめて、よせる」の意味があります。阿弥陀仏の方から私をとらえて離さず、すべての功徳を私にふり向け、染み渡って下さるのです。  心が波立たなくなるわけではありません。ですが、怒りと悲しみを露わにしながらも手が合わさり、お念仏なさるAさんのお姿に頭が下がるのです。
【中止】「仏さまのお話を聞いてみませんか?」 ~熊本教区青年布教大会のお知らせ~

2024年8月27日

※8月29日(木)、台風10号が熊本県に多大な影響を及ぼす可能性が非常に高くなりました。 非常に強い台風であり、安全面を第一に考え、開催中止といたします。 令和6年8月29日 13時開会式(受付12時半)~16時半 会場 本願寺熊本別院本堂 青年布教使(45歳未満もしくは任用5年未満)が仏さまのお話をさせていただきます。 猛暑ではございますが、皆さまどうぞお参りください。会場にはクーラーが入っております。 境内地の駐車スペースに限りがあります。大変申し訳ありませんが、枠内に駐車できない場合は近隣のコインパーキングをご利用ください。  
2024年度 熊本教区仏婦連盟 総会資料について

2024年8月23日

2024年度 熊本教区仏婦連盟 総会資料をアップしました。 仏婦連盟総会資料PDF2024年度 ↑ クリックしてください。総会資料のページに添付しております。 ご覧になるには、単位会・評議員宛てに送付しておりますパスコードが必要です。
読む法話「人生の第四楽章」 (荒尾市 長洲組 西養寺 亀原了円)

2024年8月1日 ブログ

 浄土真宗本願寺派の僧侶の資格を頂きまもなく五十年、住職の任を預かり二十五年近くになり、古希の節目も近づいてまいりました。体の至る所や感覚の衰えが「老い」を伝えてきます。間違いなく人生の最終行程に入ってきたなと実感しています。  振り返れば僧侶として今日まで、お預かりのご門徒様や友人、知人の葬儀に携わった数は千人を超えました。思えば人は誰かを送り、誰かに送られてゆく命であります。必ず迎える命終、その刹那に何を思うか、何を考えるかは自らの人生を見つめ直す上で大変重要な時間であるように思います。それは交響曲でいえば第四楽章であり、クライマックスにあたるともいえるでしょう。  お釈迦様が『涅槃経』というお経で「愛おしい人の死は悲しいけれど そこから何も学ぶ事がなかったらそれはもっと悲しい」と説かれました。また「人は出会いによって育てられるが、別れによって深められてゆく」とも諭されました。  去年から今年にかけて有名人や芸能人の訃報が多く伝えられ、驚きや寂しさを感じています。しかしそれはある意味ニュースであります。しかし家族の死はニュースではありません。自らにとって一大事なものです。臨終からお通夜、葬儀等の時間帯の中をどう向き合い、そこにおいて何を思い、その後をどう生きようと考えるかは先逝く人のメッセージに応えてゆく大切な事のように思えます。  何のために生きて来たのか、何のために生きているのか、このような問いに我々仏教徒の答えは単純明快です。仏様になるために生きて来たのです。生きているのです。  命終わることは、  死して亡くなる「死亡」  ではなく  往き生まれるとして「往生」  と表現されます。  往生を涅槃とも言い、これはサンスクリット語のニールバーナの音訳です。直訳は「完全燃焼」とされています。  人としてのすべての煩悩から解放され、静かにさとりを迎えることです。命日とは単に死んだ日ではなく永遠の命をいただく二度目の誕生日と言えるかも知れません。  親鸞聖人は、凡夫とは欲望や怒り、ねたむ心おおく、私中心に物事を捉え、臨終のその瞬間まで煩悩に支配されながら苦悩すると仰いました。しかし、その凡夫を他人事の様にしか思えない私が本当に阿弥陀如来の救いを聞くとき、凡夫は私のことであり、その私を目当てとしてくださったと知らされます。親鸞聖人は必ず仏にすると誓われた阿弥陀如来の誓いを頼りとされ、心の芯に置き、そのはたらきである南無阿弥陀仏のお念仏の生活を貫かれました。  お釈迦さまは、柔らかい月の光が静かに蓮の花を開かされるように、この阿弥陀如来のはたらきを優しく私達に伝えて下さいました。人生の終わりにあたり大切な事は、ご信心をいただく事でありましょう。そこに大切なのは、仏法聴聞の生活の積み重ねであろうと思います。それは、そう遠くない日にまたいとしい人とお浄土で必ず遇えると信じて今日、今を、身近な人と、大切に生きてゆく事ではないでしょうか。  有難うございました。 合掌
2024年度 実践運動 助成金申請書 様式集

2024年7月11日

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