新着情報一覧のページです。
- 第3支部布教大会のお知らせ
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2023年5月29日
第69回 布教大会 初日 2023(令和5)年6月22日(木) 慶専寺(きょうせんじ) 下益城郡美里町津留1127 電話0964-46-2792 二日日 2023(令和5)年6月23日(金) 浄敬寺(じょうきょうじ) 宇城市豊野町下郷55 電話0964-45-3114 両日とも午後1時から午後4時まで ※お参りの際はマスク着用にご協力ください。
- 第4支部布教大会のお知らせ
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2023年5月29日
初日 2023(令和5)年6月26日(月) 覚円寺(かくえんじ) 芦北町海浦444 二日日 2023(令和5)年6月27日(火) 恩徳寺(おんどくじ) 芦北町宮崎202 両日とも午後1時半(受付1時)から午後4時半まで 参加費:自由懇志 問い合せ 080-3907-9944(覚円寺・黒田)
- 第1支部青年布教大会のお知らせ
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2023年5月18日
令和5年5月31日 13時開会式(受付12時半)~16時 奈良より花岡静人師をお迎えし、3年ぶりに青年布教大会を開催します。午後のみの開催ですが、皆さまどうぞお参りください。 境内地の駐車スペースが少ないため、申し訳ありませんが、ご参拝の方は近隣のコインパーキングをご利用ください。
- 読む法話「お聴聞に導かれて」 (熊本市 飽田組 浄行寺 盛 忍)
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2023年5月1日 ブログ
佐賀県のお寺でお聞かせ頂きましたお話を紹介します。 お寺によくお参りなさるおばあちゃんがおりました。近しい家族は誰もいない、一人暮らしです。 ある宗教に熱心な近所の方が、毎日お仲間連れてきて、 「一人暮らしで哀れな身にならんないかんというのも間違うた宗教を信仰したからや。間違うた仏さまみたいなものを家に置いとるから、こういう事になる。私らの仲間に入らんか、そうしたら話し相手にもなってやる、身の周りの世話もしてやる」 と誘われます。 おばあちゃんは黙って聞くばかりで、時にはナンマンダブとお念仏が出ます。 とうとう、これ程親切に言うてやってるのに分からんのかとなりまして、 「そんなにお念仏称えておって、ご利益でもあるのか」 と詰め寄られたそうです。 その時、おばあちゃん言うたそうです。 「ハイハイございますとも、これ程毎日あれこれとおっしゃってくださいますけれども、もう迷う必要がないんですね。これが一番のご利益です」 世間のものの見方は、役に立つか立たないか、損か得かという「有用性」が気になります。 たとえひたすら念仏していても、その功徳によって何かを手に入れようとするなら、阿弥陀如来とは私の都合の請求先という事になります。 西本願寺の即如前門主は、蓮如上人五百回遠忌法要の際の法話の中で、 浄土真宗の信心は阿弥陀如来からたまわる信心、 南無阿弥陀仏が私に至り届くことであります。 苦しいから助けていただきたいとお願いすることでもなく、 念仏を称えた功徳によって救われることでもなく、 反対に阿弥陀如来が既に、 私の喜びも悲しみも、 そして煩悩のすべてを見抜いて常に喚んでいてくださることなのです。 とお示しくださいました。 生まれ難い人間に生まれさせていただきながら、ただ自分の欲求を満たすためだけに費やす一生はむなしいものです。むなしく終わることのない人生とはいかなるものか、聴聞させていただきましょう。
- 読む法話「本願力」 (玉名市 高瀬組 安楽寺 入江祥裕)
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2023年4月6日 ブログ
以前、友人の結婚披露宴に出席した時の事です。新郎の挨拶が終わり、新郎新婦は退場。エンドロールが流れ、薄暗かった会場が明るくなりました。すると天井からヒラヒラと大きな紙吹雪が舞い降りてきました。とても綺麗な演出でしたが、私は友人と2次会に向かうべく足早に会場を後にしようとしておりました。 その時です。「今、天井からペーパーアートが舞い降りて来ています。その中に「アタリ」と書いてある紙が2枚紛れ込んでいます。見つけた方は出口で新郎新婦からプレゼントを受け取ってお帰り下さい」とアナウンスが流れました。その瞬間、私はどのような行動をとったか。方向転換をして落ちていたペーパーアートを拾い集め、「アタリ」を探し求めていました。 私の体は出口に向かって歩みを進めていましたが、いつの間にか自分の意志とは反対の方向を歩んでいました。もちろんアナウンスが聞こえたからではあるのですが、そうアナウンスせしめて私にそのような行動をとらしめたものは、数か月前から、出席者に喜んでほしいと企画していた新郎新婦の強い願いでした。ちなみに残念ながら「アタリ」を見つけることは出来ませんでした。 親鸞聖人は『高僧和讃』に 本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海満ち満ちて 煩悩の濁水へだてなし 《現代語訳》 本願のはたらきにであったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は 宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない。 とお示しくださいました。 「本願」は阿弥陀様から私たちへのお願いであり、願いの通り変化を与えるはたらきを「力」と言います。 阿弥陀様の願いの言葉を聞こうともせず、背を向け反対方向を歩んでいた私が、今阿弥陀様の方を向いて手を合わせてお念仏申している。私から向かっていったわけでもないのに阿弥陀様とのご縁が今結ばれているということは、私自身が求め動いたからではありませんでした。 そうではなくて阿弥陀様がどのような仏縁も見逃すことなく常にはたらき、この私をお念仏申す身に育て、導いて下さっていたからに他なりません。その力こそ阿弥陀様の願いの力、本願力でありました。 今、私は阿弥陀様に抱かれながらこの厳しい人生を、わが身のあるまじき姿を省みながら、お浄土へと一歩一歩歩ませて頂いている道中であります。
- 読む法話「既に遇い 既に聞く」 (山都町 益東組 教尊寺 大道修)
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2023年3月16日 ブログ
今年1月、母が87歳の誕生日の前日に往生の素懐を遂げました。 ひどいリウマチを患っており、最近は軽い認知症もあった母は、20年以上前から介護が必要な身体でした。在宅介護で一日中ベッドで過ごしておりましたが、とても明るく食べる事が好きな母でした。 ところが昨年の夏、脳幹梗塞を起こしたため入院することになってしまいました。症状は重度ではなかったのですが、後遺症から食事が摂れなくなってしまい、鼻の穴からチューブを挿入して胃に通し栄養剤を注入する経鼻経管栄養をしなくてはならなくなりました。 担当医から「もう在宅介護は無理です」と判断され、3ヶ月の入院後は医療型介護施設に入所したのですが、新型コロナの影響で面会が出来ません。 会えない状況になると逆に会いたくてたまらなくなります。自宅に居たとき、部屋のベッドで過ごしている母の側にもっと頻繁に行けばよかったとの思いが込み上げてきます。 施設に私の思いを伝えると、医師の判断で短時間ではありましたが特別に面会することができました。 久しぶりに会う母は、やつれてきった姿で認知症も進んでいました。ベッドで上半身を起こした状態の母の耳元で大きな声で「おかあさーん」と言うと、目を大きく見開いて嬉しそうに私を見つめて、か細い声で「おさむちゃんね」と言って右手で私の手を握って来ました。そして動かすのもやっとの身体でもう片方の手も重ねて両手で私の手を握り「冷たいね」と言って摩って温めてくれます。 辛い身体でも私のことを案じる存在、それが母でした。 親鸞聖人は阿弥陀さまのことを、「阿弥陀さまだから私を案じるのではなく、私を案じて止まないはたらきを阿弥陀と申しあげるのだ」とお讃えになり、 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(浄土和讃、註釈版571頁) 《現代語訳:十方の数限りない世界にいる、念仏の衆生をご覧になり、その者たちを光明の中に摂め取って捨てることがない。それゆえに阿弥陀如来と申し上げるのである。》 と和讃にお示しくださいました。 私が私として母から生まれる確率、即ち、私と母が親子として出会う確率は医学的に単純に計算しただけでも実に1400兆分の1だそうです。 また、母もそのように祖母から生まれているのですから、本当に途方もない確率で私は母と親子として出会えたのです。 仏教では、仏と法と僧の三宝(さんぼう)を心から信じ、尊重することを「三帰依(さんきえ)」といいます。帰依とは教えのままに生きることを意味します。 三帰依のご文は「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」と始まります。 この世に私が私として生まれてくることはたぐいまれなことであるのに、私は私としていまここに存在している。その私が更に仏法を聞くことは一層得難いことなのに、既に仏の教えを聞くことが出来ている。その確率は、それこそ、1400兆分の1どころの話ではありません。 到底有り得なかったお聴聞のご縁に恵まれたわたしたちです。共に何度もお聴聞を重ねて、今既に出遇っている私を案じて止まない仏さまの願いをかみしめさせて頂きましょう。