新着情報

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読む法話「いのち」 (八代市 八代組 安養寺 岸部賢悟)

2022年8月16日 ブログ

最近、お笑いコンビ「バナナマン」の日村勇紀さんが出演する、こんなテレビのコマーシャルを見ました。   健康について考えてみた。しかしそれは自分の不健康について、考えることでもあった。ハナから健康な人は健康に   ついて考えない。赤ん坊が、若さについて考えないのと同じだ。  と、話は始まります。そして、   健康について考えていると自分の不健康さが目に映り、気が重くなってしまうので、「不健康を補う」ではなく、   「健康をゲットする」と考え方を変えていこう。なるほど、ものは考えようだ。確かに気が楽になってくる。  と、続いていきます。これは、行動経済学における、「同じ出来事でも、ものは考えようである」という「フレーミング効果」の一例だそうです。  さて、仏教において、お釈迦さまが示された「生・老・病・死」という言葉は、生まれたものは必ず年を重ね、病気を患い、いのち終えてゆかねばならないという私たちのいのちの真実の姿をあらわしています。  お釈迦さまは晩年に、   老いることを忌み嫌うのは、若さの驕りである。   病気になることを忌み嫌うのは、健康の驕りである。   そして、死ぬことを忌み嫌うのはいのちの驕りである。  と、説かれています。  しかし、私たちは生まれた者に老・病・死があることは頭ではわかっていても、どこか他人事でこの私のいのちの営みだとはなかなか受け止めることができません。  私たちは、生まれた自らのいのちは大切にしているつもりです。しかし、そのいのちに対して「歳は取りたくない、病気にかかるのはいやだ、死にたくない」と嘆くだけなのであれば、それは、「生・老・病・死」のいのちの姿のうち、「生」だけしか大切にできずに驕り高ぶっているということなのです。  思うように体が動かせなくなった辛さや、食べたいものが食べられなくなったり、やがては必ず死んでいく身であると感じる寂しさの中にも、不思議な因縁の中で出遇えた「しあわせ」を喜び、大切な人たちと寄り添いながら生き抜くことの有り難さを慶べたとき、「生・老・病・死」のすべてを、本当にいのちを大切にできているといえるのです。  阿弥陀さまのお話を聴聞していくことは、私たちの身勝手で自己中心的な考えを知らされ、自らの愚かさに気づかされていく世界であります。ですが、それと同時にそんな私を目当てとして「我にまかせよ、必ず救う」と常にはたらきかけてくださる阿弥陀さまのお慈悲に包まれた人生を歩んでいることに気づかされるご縁でもあるわけです。  これからも共々にお聴聞を慶びながらお念仏の日暮らしを続けてまいりましょう。南無阿弥陀仏
「本願寺からのお知らせ」のページを新設しました。

2022年7月21日

「本願寺からのお知らせ」のページを新設しました。 徐々に更新してまいります。 トップページ右の「本願寺からのお知らせ」をクリック または 下の文字をクリック ↓ 本願寺からのお知らせ
「令和2年7月豪雨」物故者三回忌追悼法要 視聴ページ

2022年7月2日

こちらは『「令和2年7月豪雨」物故者三回忌追悼法要』のyoutube視聴ページです。 2022(令和4)年7月3日(日) 13:00より下記のURLより、標記法要へアクセスできます。 法要は終了いたしました。 https://youtu.be/l2WYRLdR1fM  
読む法話「お浄土の荘厳は阿弥陀様の慈悲の表れ」 (芦北町 芦北組 覚円寺 黒田了智)

2022年7月1日 ブログ

 七宝(しっぽう)の宝池(ほうち)いさぎよく  八功徳水(はっくどくすい)みちみてり  無漏(むろ)の依果(えか)不思議なり  功徳蔵(くどくぞう)を帰命せよ  こちらは親鸞聖人のお書き下さった、『浄土和讃』のうちの一首で、『仏説無量寿経』に説かれている、お浄土の荘厳、様子を表したものです。七種類の宝石がちりばめられた池には、八つの功徳を持つ水が湛えられている、とあります。  天親菩薩が著された『倶舎論(くしゃろん)』において、この八つの功徳とは①甘く②冷たく③軟らかく④軽く⑤清らかで⑥臭くなく⑦飲む時喉を損なわない⑧飲み終わってお腹を壊す事ことのない水、と説明されています。  水というのは生きていくのに最も欠かせないものです。私は京都での学生時代、懐事情が怪しくなった時、電気やガスを止められることが数回ありました。しかし、同じように料金を滞納していても、電気やガスは止まっているのに、水道は止められたことはありませんでした。聞きますに、電気やガスは止まってもなんとか生きていけるが、水道だけは止まると生死に関わるので、料金を滞納してもぎりぎりまで止めるのを待ってくれるそうなんです。  災害で生き埋めになり、数週間ぶりに救出された方が、天井から落ちる水滴を口にしてなんとか生き延びた、という話もあります。それほど水というのは生きるのに必要不可欠なものです。  現代の日本では、蛇口をひねれば安心で清らかな水が出てくるのは当たり前のことですが、かつてはわざわざ水源や井戸まで水をくみにいかなければならず、中にはあまり飲むのには適しないけれども、仕方なく利用していたということもあったでしょう。  お釈迦様の旧跡をたどって、インドへと旅行されるお坊さんの仲間が結構いらっしゃいますが、行かれた方の感想を聞くと、また行きたいという方とニ度と行きたくないという方とニつに分かれます。もう行きたくないという方のほとんどが、旅行中に食べ物や水が合わずに、お腹を壊して大変だったとおっしゃられています。私も一度は行ってみたいと思うのですが、どちらかと言えばお腹を壊しやすい方なので、そういう話を聞くと、二の足を踏んでしまっております。日本と比べれば、現代のインドでも、水というのはまだまだ清浄とは言えないのかもしれません。  今のインドでもそうですから、かつてお釈迦様のいらっしゃった頃のインドでの水事情は、さらに厳しかったであろう事が想像できます。濁ったり匂いがして、飲めばお腹を壊してしまうような水でも飲まなければならないような人も沢山いたのでしょう。  お浄土というのは、阿弥陀様の願いが叶えられた世界であります。逆に言えば、阿弥陀様の願いというのは、私たちが生きる現実社会の裏返しであります。つまり、八つの功徳を持つ素晴らしい水があるお浄土というのは、生きるのに欠かせない水に苦しむ、私たちの姿を表しているのです。  水を求め争い、飲んだ水によって病気になったり命を落とすことが決してない世界を阿弥陀如来がお作りくださった。それは、水に苦しむ私たちの姿を案ぜずにはおれない、阿弥陀如来のお慈悲のあらわれでありました。  そして、そのお慈悲というのは、阿弥陀様のさとりの智慧より生まれたものであります。智慧と慈悲が円満し、決してニ度と水に苦しませることがないという阿弥陀様の願いが成就された場所、それがお浄土でありました。
「平和を願う念仏者の集い」~ウクライナで何が起きていたか~

2022年6月28日

毎年、熊本空襲の時期に開催している「平和を願う念仏者の集い」ですが、今年はジャーナリスト・映画監督の綿井健陽さんをお迎えして開催することになりました。 3月17日から一か月にわたり戦時下のウクライナを取材された綿井さん。イラク戦争の時と同じように「殺される側」である一般民衆の姿を丹念に取材されました。 今回はその取材から見えたウクライナの人たちの姿。そして日本にいる私たちがやらないといけないこと、そしてやってはいけないこと。そういう話をお聞かせいただけると思います。 今回、まだ申し込みできるそうですので、教務所までお問い合わせの上、ぜひご参加下さい。 〇日時 2022年6月29日(水)14時から 〇会場 熊本教区会館(熊本市中央区坪井2丁目3番32号 熊本教区教務所内) 〇テーマ 「ウクライナで何が起きていたか」 〇講師 綿井健陽さん(ジャーナリスト・映画監督) 〇参加費 1000円(現地参加・オンライン参加共に) 〇申込み先 熊本教区教務所(096-343-8283)
読む法話「当たり前はこわい」 (熊本市 託麻組 眞法寺 眞壁法城)

2022年6月1日 ブログ

 突然ですが問題です。  「上の反対は下、右の反対は左ですが、当たり前の反対は何でしょうか?」  お分かりになりましたでしょうか。答えは「有り難う」です。  「有り難い」とは、「有ることが難しい」、つまり、「滅多にない」ことであるから「感謝する」という意味で使われるようになったことばであります。「滅多にない」の反対は、「いつものこと、当たり前」といえるので「当たり前」の反対は「有り難う」となるのですが、この「当たり前」ということば、ちょっとこわい一面をもっていると私は最近感じています。  実は私、3年ちょっと前に大腸がんの手術をしました。術後にリンパ節への転移が少し認められたので(ステージ3)、半年ほど点滴と薬による抗がん剤治療を行いまして、現在は約3か月に1回の検査を受けております。前回の検査は先月の5月でしたが、特に異常はありませんでした。  さてこの検査、結局年に4回受けることになるのですが、血液検査だけで終わるのは1回だけで、残りはCT検査、MRI検査、大腸検査を順番にやっていきます。その中でも大腸検査は、前日の食事制限に始まり、朝から検査、結果が出るのは夕方になることもあり、かなり時間のかかるものになります。術後数回目までの検査のときは、たとえ一日がかりの検査になったとしても最後の「異常なし」を聞いて一安心して家に帰れていたのですが、検査に慣れ、何度も「異常なし」を聞いているうちに、いつの頃からでしょうか、前日から準備して一日検査して、そしてその結果が「異常なし」だと、 「今回の検査は、1回くらい飛ばしてもよかったんじゃないかな~」 と、何だかとても時間を損したみたいな気持ちになってしまっている自分に気がつきました。  病気をしたとき、それまで「当たり前」だった健康が、実は大変有難いことだったと身をもって気づかされます。ですから、病気のとき、またその直後には、「異常なし」は「有難い」ことなのです。ところが病気から回復してしばらくたってしまうと、また健康が「当たり前」に戻ってしまい、その結果、「異常なし」も「当たり前」、そして出てきてしまうのは、「時間を損した」というような不平であり不満であります。  できるだけそう思わないように気をつけてはいるつもりですが、「当たり前」という感覚は、どうやら人から感謝の心を奪ってしまうようであります。  今日という一日を考えてみても同じです。「有り難き今日」と受け取るか、「当たり前の今日」と受け取るかで、同じ一日でもずいぶん違ってくることになります。前者の受け止めからは大切に過ごす一日が、後者の受け止めからはうっかりと過ごしてしまう一日が、ついつい目に浮かんできそうです。  ちなみに、私たちがお経をお勤めするときは原則としてお経本を用います。何回も読んでいるので経文は覚えているのですが、お経本を用いるのが作法となっています。「当たり前のお経」ではなく、「有り難いお経」であることを身体全体で再認識するために先人の方々が作法として残してくださっているのです。