新着情報

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読む法話「心の使い方」 (山都町 益東組 教尊寺 大道修)

2023年6月6日 ブログ

 ソーシャルネットワークで出会った方が自身のページに書かれていたことです。  『会社での雑談での事・・。昔の男の子は皆、自分のナイフを持っていたな~って話になりました。ナイフで使って竹トンボや水鉄砲を作ったり、鉛筆を削ったり、悪戯する道具を作ったり…。  たまには失敗して手を切る事もありますがそうやって遊びながら、道具の使い方を覚えていった様に思います。しかし、今は子供にナイフを持たす人は減りましたね。ナイフは武器と言うイメージが強いです。  武器は人を傷つけます。危険な物は極力持たせたくないと言う親心もあるのでしょうね。ナイフは刃物です。刃物の本質は切る事です。料理で使う包丁も、人をあやめる刀も、手術で使うメスも刃物であり、何かを切るという本質は変わりません。切る対象が変わるだけです。何を切るか?は当人次第ですが、本当はソレを判断できる心を教えてあげる事が、大切な事の様な気がします。人の持つ凶器とは悪意に他なりません。  刃物が人を救う事もあれば、言葉で人を殺す事も出来る。全ての道具は使い方次第です。そして、何より知らなければならないのは、他ならない自分の「心の使い方」かも知れませんね。』(イドの日記より)  私たちの日常生活は常に自分の視座から世界を見る事に終始しています。一人ひとりが自分の思いや考え方にしがみつき、それを相手に押し付けようとします。この「自己主張」がエスカレートすると、言葉や暴力、時にはモノで相手を傷付けます。  仏教では「自己主張」即ち我執に囚われた人間の姿を「凡夫」といいます。  お念仏と出遇い人間の心の在りようや我欲の根深さを見抜かれた親鸞聖人は、「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと…」と『一念多念文意』に示されました。欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもない私たちを、その苦しみから救い取りたいと願われた仏さまが阿弥陀仏です。  阿弥陀仏の願いを聞かせ頂く中に自身の姿に気付かされる人生が開かれます。「心の使い方」を知ることは「心の在りよう」と向き合うということです。阿弥陀仏の願いの中に自分と向き合いながら生きる人生は、我執、我欲の虚しいだけの人生ではないのです。
実践運動関係助成金交付申請 様式集 2023年度分

2023年6月5日

関係者各位 実践運動関係助成金交付申請 様式集 2023年度分を公開いたしました。 クリックしてください ↓       ↓ 実践運動関係助成金交付申請 様式集 2023年度  
第3支部布教大会のお知らせ

2023年5月29日

第69回 布教大会 初日 2023(令和5)年6月22日(木) 慶専寺(きょうせんじ) 下益城郡美里町津留1127 電話0964-46-2792   二日日 2023(令和5)年6月23日(金) 浄敬寺(じょうきょうじ) 宇城市豊野町下郷55 電話0964-45-3114 両日とも午後1時から午後4時まで ※お参りの際はマスク着用にご協力ください。
第4支部布教大会のお知らせ

2023年5月29日

初日 2023(令和5)年6月26日(月) 覚円寺(かくえんじ) 芦北町海浦444  二日日 2023(令和5)年6月27日(火) 恩徳寺(おんどくじ) 芦北町宮崎202   両日とも午後1時半(受付1時)から午後4時半まで 参加費:自由懇志   問い合せ 080-3907-9944(覚円寺・黒田)
第1支部青年布教大会のお知らせ

2023年5月18日

令和5年5月31日 13時開会式(受付12時半)~16時 奈良より花岡静人師をお迎えし、3年ぶりに青年布教大会を開催します。午後のみの開催ですが、皆さまどうぞお参りください。 境内地の駐車スペースが少ないため、申し訳ありませんが、ご参拝の方は近隣のコインパーキングをご利用ください。  
読む法話「お聴聞に導かれて」 (熊本市 飽田組 浄行寺 盛 忍)

2023年5月1日 ブログ

 佐賀県のお寺でお聞かせ頂きましたお話を紹介します。  お寺によくお参りなさるおばあちゃんがおりました。近しい家族は誰もいない、一人暮らしです。  ある宗教に熱心な近所の方が、毎日お仲間連れてきて、 「一人暮らしで哀れな身にならんないかんというのも間違うた宗教を信仰したからや。間違うた仏さまみたいなものを家に置いとるから、こういう事になる。私らの仲間に入らんか、そうしたら話し相手にもなってやる、身の周りの世話もしてやる」 と誘われます。  おばあちゃんは黙って聞くばかりで、時にはナンマンダブとお念仏が出ます。  とうとう、これ程親切に言うてやってるのに分からんのかとなりまして、 「そんなにお念仏称えておって、ご利益でもあるのか」 と詰め寄られたそうです。  その時、おばあちゃん言うたそうです。 「ハイハイございますとも、これ程毎日あれこれとおっしゃってくださいますけれども、もう迷う必要がないんですね。これが一番のご利益です」  世間のものの見方は、役に立つか立たないか、損か得かという「有用性」が気になります。  たとえひたすら念仏していても、その功徳によって何かを手に入れようとするなら、阿弥陀如来とは私の都合の請求先という事になります。  西本願寺の即如前門主は、蓮如上人五百回遠忌法要の際の法話の中で、   浄土真宗の信心は阿弥陀如来からたまわる信心、   南無阿弥陀仏が私に至り届くことであります。   苦しいから助けていただきたいとお願いすることでもなく、   念仏を称えた功徳によって救われることでもなく、   反対に阿弥陀如来が既に、   私の喜びも悲しみも、   そして煩悩のすべてを見抜いて常に喚んでいてくださることなのです。 とお示しくださいました。  生まれ難い人間に生まれさせていただきながら、ただ自分の欲求を満たすためだけに費やす一生はむなしいものです。むなしく終わることのない人生とはいかなるものか、聴聞させていただきましょう。