新着情報

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読む法話「既に遇い 既に聞く」 (山都町 益東組 教尊寺 大道修)

2023年3月16日 ブログ

 今年1月、母が87歳の誕生日の前日に往生の素懐を遂げました。  ひどいリウマチを患っており、最近は軽い認知症もあった母は、20年以上前から介護が必要な身体でした。在宅介護で一日中ベッドで過ごしておりましたが、とても明るく食べる事が好きな母でした。  ところが昨年の夏、脳幹梗塞を起こしたため入院することになってしまいました。症状は重度ではなかったのですが、後遺症から食事が摂れなくなってしまい、鼻の穴からチューブを挿入して胃に通し栄養剤を注入する経鼻経管栄養をしなくてはならなくなりました。  担当医から「もう在宅介護は無理です」と判断され、3ヶ月の入院後は医療型介護施設に入所したのですが、新型コロナの影響で面会が出来ません。  会えない状況になると逆に会いたくてたまらなくなります。自宅に居たとき、部屋のベッドで過ごしている母の側にもっと頻繁に行けばよかったとの思いが込み上げてきます。  施設に私の思いを伝えると、医師の判断で短時間ではありましたが特別に面会することができました。  久しぶりに会う母は、やつれてきった姿で認知症も進んでいました。ベッドで上半身を起こした状態の母の耳元で大きな声で「おかあさーん」と言うと、目を大きく見開いて嬉しそうに私を見つめて、か細い声で「おさむちゃんね」と言って右手で私の手を握って来ました。そして動かすのもやっとの身体でもう片方の手も重ねて両手で私の手を握り「冷たいね」と言って摩って温めてくれます。  辛い身体でも私のことを案じる存在、それが母でした。  親鸞聖人は阿弥陀さまのことを、「阿弥陀さまだから私を案じるのではなく、私を案じて止まないはたらきを阿弥陀と申しあげるのだ」とお讃えになり、  「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(浄土和讃、註釈版571頁) 《現代語訳:十方の数限りない世界にいる、念仏の衆生をご覧になり、その者たちを光明の中に摂め取って捨てることがない。それゆえに阿弥陀如来と申し上げるのである。》 と和讃にお示しくださいました。  私が私として母から生まれる確率、即ち、私と母が親子として出会う確率は医学的に単純に計算しただけでも実に1400兆分の1だそうです。  また、母もそのように祖母から生まれているのですから、本当に途方もない確率で私は母と親子として出会えたのです。  仏教では、仏と法と僧の三宝(さんぼう)を心から信じ、尊重することを「三帰依(さんきえ)」といいます。帰依とは教えのままに生きることを意味します。  三帰依のご文は「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」と始まります。  この世に私が私として生まれてくることはたぐいまれなことであるのに、私は私としていまここに存在している。その私が更に仏法を聞くことは一層得難いことなのに、既に仏の教えを聞くことが出来ている。その確率は、それこそ、1400兆分の1どころの話ではありません。  到底有り得なかったお聴聞のご縁に恵まれたわたしたちです。共に何度もお聴聞を重ねて、今既に出遇っている私を案じて止まない仏さまの願いをかみしめさせて頂きましょう。
2023年度 中央教修の日程が決まりました(2月20日受付開始)

2023年2月12日

2023年度 中央教修の日程が決まりました。 2023(令和5)年2月20日受付開始です。 関係書類は下記の添付ファイルよりダウンロードしてください。 ※尚、開催要項および基本日程につきましては未定ですので、 今年度の開催要項を添付ファイルとして付けております。 ご参考下さい。 開催期日(全 4 回) (1)第 281 回:2023(令和 5)年6月30日(金)~7月3日(月)【本願寺開催】 (2)第 282 回:2023(令和 5)年9月29日(金)~ 10月1日(日)【リモート開催】       2023(令和 5)年10月28日(士)~ 29日(日) 【本願寺開催】 (3)第 283 回:2023(令和 5)年12月1日(金)~ 4日(月) 【本願寺開催】 (4)第 284 回:2024 (令和 6)年2月9日(金)~ 12日(月・祝) 【本願寺開催】 <予備日> ①2024(令和6)年1月19日(金)~22日(月) ②2024(令和6)年3月22日(金)~25日(月) ※リモート1泊教修含む本願寺開催時において、新型コロナウイルス 感染症の蔓延状況により、開催を延期する場合の期日として設定 受講申込受付 2023(令和5)年2月20日より受付を開始いたします。 それ以前の予約はお受けできません。
読む法話「帰る場所」 (氷川町 種山組 西福寺 三原哲信)

2023年2月1日 ブログ

 浄土真宗でもっとも拠り所としている『仏説無量寿経』というお経さまに、   「われまさに修行して、仏国を摂取して(中略)もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまえ」 というご文があります。阿弥陀さまの前身、法蔵菩薩さまは私の生死の苦悩を根本から解決するために、お浄土をこしらえようと仰せになります。私の苦悩の解決のために、私が欲しがるものを与えたり願いを叶えようではなく、私のいのちの帰る居場所をこしらえようとお誓い下さいました。  さて、私の父である拙寺の前住職が三十五歳でお浄土へ帰り、三十六年が経ちます。亡くなる前日、父は自坊に一時間ほど帰宅することができました。帰宅とは言うものの身軽に帰ることは叶いません。ベッドからストレッチャー、そのまま救急車に乗せて頂き、お医者さまと看護師さんが一人ずつついての帰宅でした。お寺では家族や総代さん、仏婦の皆さまが待ち受けます。救急車が境内につき、ストレッチャーのまま本堂からお内仏に至りました。食事はできませんが、お茶でも飲みながら、父も口を湿らせながら短い言葉をひと言ふた言つむぎます。  総代さんが間を取るように気を遣い、早く良くなって帰って来てくださいと言葉をかけますが、寝たままに楽飲みを使ってお茶を飲むような父が元気になって帰ってくる姿は、幼い私にも想像することは出来ませんでした。  しばらくの時間を過ごさせて頂きましたが、お医者さまの「もうお時間です」という声を合図にストレッチャーが上げられます。本堂に至り如来さまの前を通る時、如来さまの方を向いて小さい声ですがはっきりした口調で「龍水山西福寺、帰ってこれるとは思わなかった、ありがたかった。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ」と、お念仏をよろこんでお寺を出てゆき、次の日には三十五歳を一期としてお浄土へ帰らせて頂きました。  三十五歳ですべてを手ばなし、いのちを終えてゆかねばならないという事は、どれだけ想像しても届きません。しかしもしかして、「こんなはずじゃなかった、どうして私だけだ」という事かも知れません。しかし父は最後に「ありがたかった」とお礼を申しました。それは、尊い仏さまに出あうことのできた、ありがたい人生だった。名残惜しくも、これからあなたのところへ参らせて頂きますという事だったと感じています。  父のありがたかったという姿勢を通して、如来さまのお心、それは「あなたの生死の苦を抜く」というお心に出あわせて頂いたことを、よろこんでいます。
新年のご挨拶  熊本別院輪番・熊本教区教務所長 大辻子順紀

2023年1月1日 ブログ

慈光迎春  お念仏とともに新年を迎えられましたこと、皆さまとご一緒に慶び感謝申しあげたく存じます。本年も何卒宜しくお願いいたします。  さて、本年3月29日より親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要がご本山においてお勤まりになります。コロナ禍中のためにさまざまな制約がともなうなかでのご法要は大変残念ではございますが、50年に一度のご勝縁にぜひともお遇いさせていただき、「親鸞聖人の御誕生がなければお念仏に出遇うことなく、わが生涯はむなしく過ぎていったに違いない。」と、御誕生そして立教開宗に皆さまとともに感謝し、お念仏申しあげたいと存じます。さらに熊本別院並びに熊本教区の諸事業を進めるべく、皆さまのご理解を賜り、微力ながら尽力いたす所存でございます。  どうやら本年もコロナと共存しながらの一年となりそうです。4年目となり、だいぶ慣れてきたとはいえ緊張感をもって驕ることなく、職員とともに精進してまいりますので、皆さまには引き続き、ご教導たまわりますようお願い申しあげ新年のご挨拶とさせていただきます。 合掌   親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要についての詳細はこちらをご覧ください。
読む法話「念仏の法に遇うとは (立派に生きたいけど)」 (八代市 八代組 願行寺 鹿本地上)

2022年12月1日 ブログ

 「立派な生活とは、感謝と反省を忘れず日々努力し向上していくこと」と言えば、誰しも頷きますし、確かにその通りです。  「正しい生き方に努めましょう。そのためには感謝を忘れません。常にわが身を振り返り反省します。愚痴や不平を言いません。いつも喜びをもって暮らします。」確かにその通りです。  しかしこの立派で正しい生活への希望を根底から乱すものがあります。それが私の身に満ちている煩悩です。いわゆる、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴です。  人生が思うように行っている時は、貪欲という煩悩が働きだし感謝と反省の心を見失わせるのです。  貪欲ですから、満足することがありません。もっともっと欲は膨らむばかりです。名誉、地位、財産、寿命、どれをとってみても「これで満足です。これ以上はいりません」とはならないのです。  こんな時は多くの人が集まってきて、その人を褒めそやして追従しますが、「思いあがるな」と注意する人の言葉は耳に入りません。それで益々自惚れます。  仕事が順調に進み、多額の財産を得て、高い地位につき、名が世に知られるようになり、周囲の人から「先生」と呼ばれるようになると、何か自分が偉くなったように思いあがります。  反対に逆境になると、瞋恚という煩悩が働き出して平常な心を失わせます。病気になったり、年老いたり、身内を亡くしたり、仕事が上手くいかなくなったりすると、些細なことで腹を立て、他者が順調に暮らしているのを見て、嫉(そね)み、妬(ねた)み、羨(うらや)みといった思いに縛られ、ますます心は暗くなります。  なぜ、お互いは順境に酔い、逆境に溺れるのでしょうか。 それは、お互いを支えている心のものさしが、愚痴という煩悩だからです。  愚痴とは、自分中心(自分達中心)の心で、都合よくなれば浮き上がり、都合が悪くなれば沈み込んでいきます。愚痴は無明(むみょう)ともいわれます。煩悩が光を塞いでいて暗いのです。暗いので迷いから抜け出すことができません。  念仏の法に遇うということは、このような煩悩の身を喚(よ)びさまし、そのような身をその身のまま抱きとって煩悩の身を解放し、生死(しょうじ)の海に沈みいく身のまま真実の浄土に渡してくださる、真実の智慧と慈悲のはたらきに思いをめぐらせていただく事なのでした。
読む法話「てまえどり」 (益城町 益北組 浄恩寺 玉春勇樹)

2022年11月1日 ブログ

 昼食を買おうとコンビニエンスストアに立ち寄ったときのこと。  おにぎりの棚の前に立ってどの具にしようか選びあぐねていると、「てまえどり」という見なれない単語が視界に入った。  見渡してみると、どの食品の棚にも「『てまえどり』にご協力ください」という趣旨の啓発POP(売り場に設置されている掲示物のこと)が掲示されている。  POPによれば「てまえどり」とは、「買ってすぐに食べるのであれば賞味期限が迫っている手前の商品を選びましょう」ということらしい。  まだ食べられる食品を捨ててしまう食品ロスは日本国内で年間に600万トンに達するとされる。  国民一人あたりでいえば年間で47Kg、一日で茶碗一杯分を捨てていることになる。  食品ロスは倫理的な問題にとどまらず、資源やエネルギーの問題でもあり、ひいては地球全体の環境問題につながる課題である。  食品ロスを削減するための工夫の一つが「てまえどり」、ということだ。  そういえば、私には昔からとある癖がある。  スーパーマーケットで牛乳を買おうとするとき、棚の奥にある牛乳をとりたい、と考える癖だ。  牛乳だけではなく、おにぎりもそうだ。自分の都合だけ考えるならば、新しいほうがいいに決まっている。  食品ロスだとか資源やエネルギーの問題だとかは自分に関係がないと頬かむりをして、自分の都合だけ考えているほうが楽なのだ。  一方で、自分の都合だけ考えていると結局は周りを傷つけ自分も傷つくことになる、とお念仏をいただく私たちは知っている。  あらゆる命の安らぎが自らの安らぎであるとする阿弥陀仏のありようを聞いていく中に、自分さえよければいいという考えを超えたところにこそ本当の安らぎがあることを知らされるからだ。  自分さえよければいいという心に縛られながら生きるのか、  自分の都合を超えて地球全体に思いを巡らしながら生きるのか。  「てまえどり」のPOPを前にして、いよいよ昼食のおにぎりを選びあぐねることになった。