新着情報一覧のページです。
- 2024年度 熊本教区布教団 総会資料について
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2024年6月3日
2024年度 熊本教区布教団 総会資料をアップしました。 布教団総会資料PDF2024年度 ↑ クリックしてください。総会資料のページに添付しております。 ご覧になるには、別途団員宛てに送付しておりますパスコードが必要です。
- 読む法話「救いを告げるお方」 (菊池市 菊池組 照嚴寺 髙田聡信)
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2024年6月1日 ブログ
阿弥陀という仏さまは、私たちに教えを告げられません。また教えを告げて私を育てるというお方でもありません。なぜならば、教えを告げたところでとらわれから一歩も離れることはできずに、煩悩を燃やし続けることしかできない私のことをよくよくご存じであったからです。教え育てようとしても、育てることができない私の状況をよくよくご存じであったからです。唯一つ救いを告げられるのでした。いつでもどこでも、この私を必ず救うと聞かせてくださるのが阿弥陀さまのお慈悲です。 お寺によくおまいりになられる女性の方がいらっしゃいます。重い病気を患われまして、その入院中に出逢った看護師さんのことを私に話してくださったことがありました。 大手術の後の傷口を毎日消毒してくださいました。そのとき看護師さんは一度も「痛いですか」と尋ねたことがあ りませんでした。いつも消毒しながらかけてくださる言葉は「痛いですね」「痛いですね」でした。この看護師さん の言葉に、私は思わず涙が止まらなかったのです。日頃から親戚やお友達、そして家族からも「大丈夫だから」「よ くなるから」と励まされていました。みんなが親身になって心配してくれているのをヒシヒシと感じたからこそ、そ の心がとてもうれしかったのです。そしてそれが私の大きな力になりました。でも、本音は怖かったんです。辛かっ たんです。逃げたかったんです。誰かにその本音を聞いてほしいと思ったけれど、誰にも言えませんでした。なぜな らみんな私を熱心に応援してくれていたからです。みんなの期待を裏切るようなことはしたくない、心配かけさせた くないと思ったからいつのまにか自分の本音を言えなくなっていました。その心の中に隠し張りつめていたものを寄 り添い解きほぐすような言葉が「痛いですね」でした。その言葉に出逢った時に、思わず私は隠していた心の涙を隠 すことができませんでした。 というお話でした。 阿弥陀さまは、私の苦しみ悲しみをすでに知っているといつもご一緒してくださいます。そしてただご一緒してくださるだけではなく、あらゆる功徳を私に振り向けて根こそぎ救うと願いはたらいてくださるというのが阿弥陀という仏さまです。 お念仏の生活は仏さまの確かな救いをよろこばせていただく日々であります。殺伐としていのちの触れ合いが少なくなってきている昨今、私だけでなく孤独感に襲われがちなすべての方々が、仏さまの温かい眼差しといのちの有り難さに触れてくださればと思います。
- 第1支部青年布教大会のお知らせ
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2024年5月9日
令和6年5月31日 13時開会式(受付12時半)~16時 今年令和6年(2024年)は浄土真宗立教開宗800年に当たります。 それを記念して、去年に引き続き、午後のみの開催ですが第1支部の青年布教大会を開催します。皆さまどうぞお参りください。 境内地の駐車スペースが少ないため、申し訳ありませんが、ご参拝の方は近隣のコインパーキングをご利用ください。
- 「聞法のつどい(第2支部布教大会)」のお知らせ
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2024年5月9日
大阪から義本弘導師をお招きいたしました。皆様、どうぞお参りください。 2024年5月30日(木) 13時開会 16時15分閉会 会場 照厳寺(熊本県菊池市西寺1820) 参加費 自由懇志(皆様のご懇志によって運営しております)
- 読む法話「本当の安心」 (西原村 益北組 慈雲寺 工藤恭修)
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2024年5月1日 ブログ
皆さんは普段生活をしている中で、何に安心を求めているでしょうか。こんな質 問をした時、「安定した生活に安心を感じる」と友人は答えてくれました。 さて、皆さんはどうですか。安定した生活とは何を持って言えるでしょうか。金銭的な余裕、健康的な体、名声や地位でしょうか。確かにこれらがあれば、この人生は安心かもしれません。 しかし、それを手にしたとしても、一瞬でその手から離れていくものでもあります。その事も理解しているからこそ、手から離れていく不安の中で生活をしなければならない、本当の安心とは言えないでしょう。 浄土真宗という教えは、南無阿弥陀仏のお念仏をこの人生の本当の拠り所、支えがあきらかになる教えです。 福岡でサラリーマンとして働いていた時の事。朝早くに仕事に向かい夜遅くに帰ってくる生活。そんな仕事ばかりの毎日で心身共に疲弊しきっていました。 久々の休みを取り、地元である西原村に帰り近くを散歩していた時の事、梅の花の香りにつられふと上を見上げると、そこには咲き誇った紅梅と青く広がった空が目に飛び込んできました。 仕事に追われ空なんて見る余裕などなかった事にハッと気付かされました。考えてみると子供の時はよく見上げていた空も、歳を重ねるにつれ目の前の物事をこなすうちにいつしか見る事さえしなくなっている。 見上げた空は昔と見た空と変わらない青く澄んだ世界でした。昔を思い出すと、共に変わらない空に私はなんとも言えない安心を感じました。 紅梅から様々な花に咲きうつろいゆく様に、私たちが生きている世界も常に移り変わりゆきます。心が追いつかない様な変化もある世界でもある。 だからこそ「変わりゆく私、変わりゆく世界に生きているからこそ変わらないものが安心を与える」のでしょう。 「どんなあなたであっても、どの様な生き方をしていようとも大丈夫、見捨てはしない。だからこの南無阿弥陀仏の道を生き抜いておいで」 忙しなく動き変わり続け喜怒哀楽を繰り返す私たちを決して変わる事なく常に優しく包み込んで下さる仏がいらっしゃいます。その仏を阿弥陀仏と聞かせていただきます。 決して変わらない安心を支えとし、このいのちを生き抜いて往くのです。
- 読む法話「心配するな」 (芦北町 芦北組 覚応寺 葦原理江)
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2024年4月1日 ブログ
去年の11月15日は父の七回忌でした。8年前、膵臓がんと診断された父は、1年4ヶ月の間、抗がん剤治療を受けながら自宅で過ごしていました。その時、父は、部屋の前を通る家族を呼び止めては、それぞれにいろんな話しをしてくれていました。 去年7月に、家族だけでの父の七回忌法要を勤めたとき、住職である弟が、法話でその時の話をしてくれました。 ある日、父は弟を呼び止めて、このように言ったそうです。 「おい、窓の外ば見てみろ。あそこに赤い実がたくさんなっとる木があるやろ。さっきから小さい鳥が、その実を食べようとして飛んで来るけど、すぐにはその木に止まらん。少し離れた木に止まって、キョロキョロと怯えながら辺りを見渡しよる。それを繰り返してようやっとその木に止まっても、まだ警戒して、キョロキョロしながら赤い実を食べて、慌てて飛んで行きよる。 あの怯えながら生きる姿こそ、阿弥陀さまが願わずにはおられなかった、私たちの姿そのものなんだよ。 『大経(仏説無量寿経)』に「一切恐懼 為作大安(いっさいくく いさだいあん)」とある。その「懼(く)」という字の「忄(りっしんべん)」は「心」を表し、右下の「隹(ふるとり)」は尾っぽの短いずんぐりした鳥を表しとる。右上の2つ並んだ「目」の字は、その鳥が怯えながらキョロキョロとする様を表しとる。 「一切の恐懼に、ために大安を作さん。」生死の苦しみに常に怯えて、安心して生きることの出来ない全てのいのちに、阿弥陀さまは、この上ない安らぎを、与えてくださってあるんだよ」と。 病いの中にあった父が、阿弥陀さまの大いなるお慈悲のうちにあったことを感じ、涙とお念仏が溢れてきました。 そして、そのお念仏の中に「心配するな」と呼びかけ、今ここ私に、まことの安心を与えてくださる阿弥陀さまの、あたたかいお慈悲に包まれた、七回忌法要でありました。