新着情報

新着情報一覧のページです。

9/5全寺院向けご案内

2025年9月5日 ブログ

下記の通りメール配信をいたしましたので、ご確認ください。 書類一式のダウンロードはこちらから ・本願寺熊本別院 秋季彼岸会・総永代経法要のご案内 ・帰敬式案内(再送)
読む法話「「また来るけんね」は母のよび声」 (八代市 種山組 大法寺 大松 龍昭)

2025年9月1日 ブログ

 昨年の十月に九十七歳で往生した、私の母の話です。  九十を過ぎて次第に認知症が進んで以降、母は長姉の家に住まいを移し、そこで最後まで過ごしました。  亡くなる二か月ほど前のことです。発熱して母は近くの病院に入院しました。姉は母が寝たきりなることを心配し、熱が下がったら一旦退院させ、リハビリができる通所していた施設に移すつもりでした。しかし、私がその病院に初めて足を運んでその母の姿をみた時、「これはここを出ることはあるまい。きっとここが最後になるだろう」と私なりに気づきました。私はこれまで亡くなったご門徒さんの姿に何度も出あってきましたが、そのご門徒さんの姿とその時の母の姿が、完全に重なって見えたからです。なのでそれからは「次はない。これが最後なのだ」と自分に言い聞かせて見舞っていました。  ところが結果的に最後の見舞いとなったその日、看護師さんが「だいぶ食欲が落ちられました」と仰ったので、私は母に「ご飯は無理してでも食べなあかんよ」と声をかけ、母も理解したかのように二、三度頷きました。そしてその日、私は帰り際に母に「また来るけんね」と言ったのです。  確かに見舞いの帰りに「二度と来んけんね」と言って去る人はいないでしょう。「次に来るまで元気にしていてね」という思いで「また来るけんね」と言うのは、至って普通なことです。しかし、「次はない、これが最後だ」と自分に言い聞かせていた私は、この言葉がこの口から出たことに愕然としました。  この命は先送りなどできないものであること、明日とも今日とも知れない命をいま不思議にも生かされていること、したがってこの今を決して疎かにしてはならんのだということをこれまで何度も学んできたつもりだったのに、この口は「また来るけんね」と間違いなく言ったのです。  私は「やはりそうか」とつくづく思いました。どれほど大切なことですら、やすやすと忘れてしまう身の上の事実を忘れていたことを。だからこの命が尽きるまで、大切なことは繰り返し気づき直していかねばならないということを、また改めて母から学ばせてもらったのだと思ったことです。  そしてもう一つ思ったのは、「また来るけんね」は私が言うべき言葉ではなかったということです。親鸞聖人が「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と明かされている通り、阿弥陀仏より施された(回向)お念仏の道とは、この私がお浄土へと行き生まれて仏と成る(往相)と同時に、仏と成るがゆえにこの娑婆世界に必ず還ってくる(還相)ということでありました。  どのようにしてこの私が仏縁に出あったかということについては、それぞれに背景がありましょう。ただ、自ら求めてというよりは、私が図らずして誰かに導かれて気がついたら出あっていた、ということが多いのではないでしょうか。例えば、あの人との別れという悲しみと痛みが縁となってこの教えに出あった、ということも少なくはないでしょう。  だとするならば、その私が称えるお念仏はそのまま仏と成った亡き方のお陰でこぼれたお念仏であり、その合わさった両手もまた仏と成った亡き方のお陰で合わさった両手ということになりましょう。そしてそこに気づかされてくると、この私の称えるお念仏の中に、この私の合わせた両手の中に、そのはたらきにいつだって出あえるのだということも明らかになってくるはずです。つまり仏と成った亡き方とは、私がお浄土に生まれねばあえないのではなく、いまここであえるということです。「還ってくる」とはそういうことを意味しているはずで、姿・形として見えてくるのではなく、はたらきとして感じ取り、聞き取っていくものだと私は思います。  そういう意味において、「また来るけんね」はそもそも私が言うべきものではなかったのです。「気づいている通り、私の死はもう間近だよ。でもね、心配はいらない。この命終えて速やかに仏と成って、貴方がお念仏を称えるその口元に、そして貴方が合わせるその両手の中に、必ず繰り返しまた還ってくるからね、そのことにどうか気づいておくれね」という、母のよび声でありました。そのように味わえた時に、母との別れがより一層尊いものに思えたことでありました。 
「令和7年8月豪雨」 災害義援金募集について

2025年8月25日

「令和7年8月豪雨」災害義援金募集について    今般、令和7年8月6日からの記録的な大雨により、全国の広範囲において多くの人的被害・住家被害が確認されております。 当教区内におきましても、8月19日現在、一般寺院被害6組30ヵ寺、門信徒被害9組28ヵ寺より、被害が報告されており、現在も被害状況の収集に努めております。 つきましては、被害された方々の一日も早い復興を願い、災害義援金の募集を開始いたしましたので、ご協力をいただきますよう何卒よろしくお願い申しあげます。 1.口 座 名及び記号番号   <郵便振替>      口 座 名:浄土真宗本願寺派熊本教区教務所      記号番号:01950-2-1881   ※他金融機関からお振込の場合      銀 行 名:ゆうちょ銀行  金融機関コード:9900      店  番:199     預金種目:当座      店  名:一九九 店(イチキュウキュウ店)      口座番号:0001881      口 座 名:浄土真宗本願寺派熊本教区教務所 2.受付期間  2025(令和7)年8月20日(水)から当面の間   3.問合せ先  浄土真宗本願寺派 熊本教区教務所          住所:〒860-0863 熊本市中央区坪井2丁目3-32             本願寺熊本別院内          TEL:096-343-8283  FAX:096-345-9167   4.そ の 他  宗派被害状況及び対応経過にかかる詳細については、<宗派公式Webサイト>よりご覧いただけます。 https://www.hongwanji.or.jp/news/cat5/002714.html                                    以 上  
8/15全寺院向けご案内

2025年8月15日 ブログ

下記の通りメール配信をいたしましたので、ご確認ください。 書類一式のダウンロードはこちらから ・「同朋サロンー人間と差別を考えるつどいー」開催のご案内 ・第45回千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要「平和の鐘」について ・「第25回仏教壮年鹿児島大会」開催について(再案内) ・仏婦連盟 夏の一日研修会開催について  
【布教団】連区布教使研修会 オンライン参加(聴講)のご案内について

2025年8月13日

このたび、第5連区外の布教使研修会について、下記の通り受け入れがありますのでお知らせいたします。 詳細は宗派ウェブサイトの開催要項をご覧ください。 (1)第3連区 布教使研修会(主幹教区:兵庫) (2)第1連区 青年布教使研修会(主幹教区:東北) 宗派公式ウェブサイト「布教団連合」ウェブページ  https://www.hongwanji.or.jp/jiin/hukyou.html#hss_03
読む法話「親しき友」   (嘉島町 緑陽組 法源寺 松本浩信) 

2025年8月1日 ブログ

 他力とは他人の力ではなく、阿弥陀さまの本願の力です。本願とは阿弥陀さまの「根本の願い」すなわち「生きとし生けるものを救わずにはおれない」という強い願いです。その働きを他力というのです。そして、阿弥陀さまの本願を深く信じて疑わない心を信心というのです。  親鸞聖人は、   「他力の信心うるひとを うやまひおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ」 (『正像末和讃』) と、ご和讃に記されました。お釈迦さまのお姿を経典より頂かれ、親鸞におきても同じ思いであることを伝えられたのです。  『仏説無量寿経』の下巻に『往覲偈(おうごんげ)』という偈文(げもん)があります。その後半に、お釈迦さまが敬い慶ばれ褒められた「親しき友」のことが書かれています。   「人のいのちはなかなか得がたいものだが、   それでも仏に遇うことはなお難しく、   信心の智慧を得ることはなおさらである。   ゆえにもし法を聞くことができたなら精進してさらに求めるがよい。   教えを聞き心にとどめてそれを忘れず、   仏を敬い信じて慶ぶものは、すなわちわが善き親友なり。」  得がたくして得たいのちは、明日をも知れぬ儚いご縁です。そのいのちは、多くのお陰さまに生かされています。そのひとつが食事です。私ひとつのいのちを支えるために、多くのいのちを毎日頂いているのです。  娘が中学生のとき、保護者会の手伝いをしていました。その時、教頭先生から 「ちゃんと給食費を払っていますから、うちの子には、給食の時、いただきますと言わせないでください」 と電話を掛けてきた保護者のことを伺いました。思わず笑ってしまったのですが、「いただきます」の大切な意味が伝わらない時代になったのかと、悲しい気持ちになりました。  そんな私たちに、ご縁を頂きみ教えに遇うことが出来たならば、   「精進してさらに求めるがよい。」 と勧めてくださいます。精進とは『聴聞の心得』に   一、この度のこのご縁は 初事と思うべし   一、この度のこのご縁は 我一人の為と思うべし   一、この度のこのご縁は 今生最後と思うべし と示してあるように、いつ終わるとも知れないいのちのご縁を今日も頂き、み教えと出遇うことができたことを有難く勤めることです。  私たちは、見たり聞いたりしたことを、知識として覚えようとします。しかし、いつの間にか忘れてしまうことが殆どです。特に最近人の名前を思い出せないことがよくあります。「聴聞とは吸収すること」と言う言葉を聞いたことがあります。まさに阿弥陀さまのみ教えは、覚えることではなく我がいのちに向けられた阿弥陀さまの心願いそのままを受け取ることが大切なのです。   「教えを聞き心にとどめてそれを忘れず、仏を敬い信じて慶ぶもの」  親鸞聖人は、その姿を「他力の信心うるひと」と受け取られ、お釈迦さまが   「すなわちわが善き親友なり」 と慶ばれたことを、同じ思いであるとご和讃にて記されたのです。