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読む法話 「天下和順」 (氷川町 光澤寺 源明龍)

2021年6月6日 ブログ

浄土真宗がよりどころとする『仏説無量寿経』の下巻に、    「仏所遊(ぶっしょゆ)履(り) ~(中略)~天下和(てんげわ)順(じゅん) 日月(にちがつ)清明(しょうみょう) 風雨以(ふううい)時(じ) 災厲不起(さいれいふき)     国(こく)豊(ぶ)民安(みんなん) 兵戈(ひょうが)無用(むよう) 崇(しゅう)徳(とく)興(こう)仁(にん) 務(む)修(しゅ)礼譲(らいじょう)」   という仏の教えがある。意味は以下の通り。   「仏の行かれる所は、世の中は平和に潤い、太陽も月も清らかに照り輝き、風は程よく爽やか、雨も頃合いを計ったかのように降り注ぐ。災害や疫病などという名さえも聞くことなく、また起こりもしない。国は豊かに芳醇で、民の暮らしは安らぎ、軍隊や兵器等も役割を果たせるどころか無用の長物と化す。民衆は互いに敬い尊び合い、礼節を重んじ語り合う。」    過去より今日まで人々は自然災害や疫病の蔓延、戦争の脅威にさらされてきた。最近ニュースの顔はコロナの脅威目線と軍備拡張と内乱のことである。コロナ災禍といえばインドの姿が一番目に痛い。  昨年夫婦で(2020年1月20日より29日まで)金婚の記念に釈尊の聖地を巡拝した。そのとき懇切に現地を案内してくれた40代の彼が後日コロナで亡くなったと知らされた。医療崩壊が起き酸素(ボンベ)も足らず、1台のベッドを2人で使用している惨状だ。1日の感染者の数が3日連続で40万人を超えたとの報もある(5月8日付)。歴史の回顧に「もし」や「たら」はないが、釈尊がこの現状をご覧になられたらどう思われたであろうか…。  ふとそう考える私の頭に釈尊の法雷が轟く。「お前ならどう思う!」  もちろん、現状を打破し応急処置を施すのが仏教の本来ではない。しかし、仏は今まさに、光明無量・寿命無量のはたらきを以てこの現状に関わりづくめであろう。人間の次元では分かる術もない。仏の願いが浄土を根源的いのちの世界として、仏は遊履しておられる。遊履しておられる所とは、仏のご教化が行きわたる所、また念仏が広まっていく所の意である。そこに天下は和順し、国も豊み、人々は礼節を知り徳を尊び心豊かに平穏に暮らせ、兵隊兵器があっても、それらは全く役に立つことはない。「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と親鸞聖人御消息のお言葉を外に向かって大声で叫びたい。      
読む法話 「阿弥陀さまの願いによって完成されたお浄土」 (上天草市 満行寺 古川佐奈江)

2021年5月10日 ブログ

 私の実家はお寺ではありません。祖父母は田畑を営み、両親は共働きという家庭で私は育ちました。実家で母は毎朝、お仏壇にお仏飯をお供えし、さらに、お茶、お水、お酒という三点セットを供えていましたが、おそらくは祖母がそうしていたからでしょう。  この法話をお読みくださっている方の中にも、亡くなった方がのどが乾かないようにと思い、お仏壇にお水をお供えされている方がいらっしゃるかと思いますが、阿弥陀さまの願いによって完成された極楽浄土には「八功徳水(はっくどくすい)」という八つの功徳が備わった水が存在します。①甘く②冷たく③軟らかく④軽く⑤清らかで⑥臭くなく⑦喉の渇きを潤し⑧お腹をこわすことのない水です。また、お浄土は全てが満たされた世界ですので、お腹がすいたとか、のどが渇いたということはありません。ですから私たちが亡くなられた方を心配してお水やお茶をお供えする必要はないのです。  今、水はお店でも家庭でも簡単に手に入ります。場所によっては手を差し出すだけで自動で出てきます。いつも手に入って当たり前の世界では、災害が起こったときなどに初めて有難さを感じる水ですが、極楽浄土は常にその功徳を感受できる世界なのです。ですから、大切なお水を仏様にお供えするときには、華瓶(けびょう)という仏具にお水を入れ、香木を挿し、香りの八功徳水としてお供えいたします。ご飯をお仏飯器に盛るように、お水は華瓶に入れてお供えするのです。ただ、ご家庭のお仏壇となると華瓶は大変小さくなりますので、形ばかりになってしまうことも多いのですが、この事を知っているのか、知らないまま過ごすのかでは大きく違ってくると思います。  母はこの事を知って、いつのまにかお茶もお酒もお供えしなくなりましたが、絶対にお供えしてはいけないとは申せません。実際、ご門徒の方で月忌参りに伺うと、お仏壇に可愛らしいコップで牛乳をお供えされているお家があります。いつまでも子を思う親心が込められているのを感じます。亡き子を偲び、阿弥陀さまのはたらきによって仏となられたいのちを敬い、悲しいだけでは終わらせない阿弥陀さまとの尊いご縁を毎回いただいております。  極楽浄土は阿弥陀さまが私の事を願い、完成された世界です。いつまでも子を思う親心のように、いつでもどこでも私を思い、願い続けてくださっています。お浄土からのはたらきに手を合わせ、報恩感謝のお念仏を申すことであります。  
読む法話 「この私がお念仏をお称えするということ」 (熊本市 眞法寺 眞壁法城)

2021年4月5日 ブログ

 先日の令和3年3月11日、東日本大震災からちょうど10年が経ちました。テレビでは当時の映像が流れ、私も地震が発生した14時46分に追悼の鐘を撞き、当時を振り返ったことでありましたが、今月4月には熊本地震からちょうど5年が経ちます。ふと、あのときの私はどんなことを考えていたのだろうと思い、当時の資料を探したところ、次の文章が見つかりました。熊本地震から一ヶ月を過ぎた頃に私のお寺からご門徒の方々にお配りしたお便りです(一部加筆修正してあります)。   地震から一月以上が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。  今回の被災生活についてお尋ねすると、「水のありがたさをしみじみ感じました」というような声が一番多く聞かれます。たしかに私もそうでありました。  熊本市は地下水に恵まれていますから、私は生まれてからこれまで水不足を感じたことは正直ありませんでした。しかし今回、蛇口をひねれば水が出てくることが当たり前だった生活から、地震のため蛇口をひねっても水が出ない、そのような生活への変化を余儀なくされました。しばらくして水道が復旧し再び水が出るようになったのですが、そのとき、それまで出て当たり前であった水は、有り難い水へと変わっていました。  水が出ることは当たり前なのか、それとも有り難いことなのかという感覚の違いは、自力の念仏と他力の念仏の違いに通じる部分があります。  つまり、この私がお念仏をお称えするのは、あくまで私の意思に基づく私の行為と解釈するのか、それとも、この私をお念仏をお称えする人間へと育てあげようとする阿弥陀さまの願いでありおはたらきであると解釈するのかという違いに似ているのです。  お念仏をお称えするのは私の行為なのか、それとも阿弥陀さまのおはたらきなのか。この解釈の違いは、阿弥陀さまの願いがなければ、はたして私はお念仏をお称えするような人間であるのだろうかと思いを巡らすことから生じます。結論を言ってしまえば、自分の力でお念仏をお称えしていると思っている限り、阿弥陀さまのおはたらきに思いが至ることはありません。これは、先ほどの水でたとえるなら、水道の蛇口から水が出ている状態を見ても、その背後にある水源や水道管の存在に思いを巡らすことができなければ、「蛇口から水が出ているなぁ」という表面的な感想しか出てこないのと同じです。自分は自分の力でお念仏するような人間ではないというところに立てたとき、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを感じることができるのです。それは、水道の蛇口から出る水を見て、水源や水道管の存在に思いを巡らせることができるようになったときに初めて、「ここに水が出るためにはさまざまなご縁と色々な方のご苦労があったことだろうなぁ」と、その事実を深く受け止めることができるようになるのと同じであります。このように、私の姿を仏法を通して深く見つめ、自分のお称えするお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができるようになることを、「お育てをいただく」といいます。私も最初、お念仏は自分で称えているとしか理解できなかったのですが、いつのまにかお念仏に阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができる身へと育てられています。思えば本当に不思議なご縁です。  地震から5年が経ち、私のお寺の近所で地震の痕跡を目にすることはかなり少なくなりました。目まぐるしく変化する毎日の生活の中で、私の場合、当時の記憶を思い返す時間もだんだん少なくなってきています。しかし、熊本の状況が、私の状況が、どのように変わろうとも、阿弥陀さまの願いは全く変わることがありません。常にこの私にはたらき続けてくださっています。そしてこの私は、阿弥陀さまの願いが届いていなければお念仏をお称えするような人間ではないことにもやはり変わりはありません。  約一年前から世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、私は今も変わらずにお念仏をお称えさせていただいております。阿弥陀さまのおはたらきの真っただ中で。  
読む法話 「お通夜の法話」 (熊本市 浄行寺 盛 忍)

2020年12月1日 ブログ

「お通夜」と申しますのは、夜を通して、最後の看取り、看病をさせていただく場であります。また別の言い方をしますと、「夜伽(よとぎ)」と申します。「伽(とぎ)」とは、「お伽話(おとぎばなし)」のことであります。子供に寝物語をして、その相手をしたり…つまり、語り相手をし、看病することなんです。  息をされてるわけではないけれど、まだ生きておられるお姿を装うのであります。 最後の別れに会えなかった親しき方々が大急ぎで駆けつけて、一夜最後の看病、最後のお看取りをさせてもらうひと時なのです。ただ涙にかきくれる方もありましょう。  宮城 顗(みやぎ・しずか)という先生が、「人を失った悲しみの深さは、生前にその人からわが身が受けていた贈りものの大きさであった」という言葉を遺しておられます。  喜びも悲しみも共にして、この厳しい人生を手をとり合って暮らしてきた、はげまし合って生きてきた人、また私をこの人間の世界へ送り出してくれた父や母。ここまで育ててくれた両親との別離。あるいは、幼子との別離の人もあり、深い悲しみと嘆きを心に味わわずにはおれないこの世の現実があります。  その時、これほど大きな悲しみが私をおおってしまうのは、平素は気づかなかったけれど、その人がいてくれることで大きな支えや生き甲斐などをこの私がいただき続けてきたからだと気づかされます。つながりの中に自分というものを与えられて生きているのが私でありますなら、大切な人の死は、それまで向き合ったこともない自分自身の「いのち」の事実でもあったと知らされます。  それじゃ時間決めてお通夜のお勤めするのは何かと言いますと、あれは「お夕事(おゆうじ)」夕方のお勤めなんです。ご本人はお勤め出来ませんから、皆が代わりにご一緒させていただいているのでありまして、亡き人にお経あげるんじゃないんです。  辛く悲しい現実ではありますが、あなたの後ろ姿を無駄にはいたしません。私自身の人生に深いお育てをいただきましたと手を合わせ、お念仏申します。  今夜のお通夜をご縁として、お参りくださいました皆さんと共に仏縁を結ばせていただくひと時でありたいと願うばかりであります。